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モラトリアム脱却日記

この物語は、完全私の実話でお届けします。

2000年生まれ、ラスト20世紀少年としてこの世に誕生したもふ美。
ふたご座、A型、九州出身、早大出身、今年の4月に入ったばかりの会社は半年足らずで退職。
好きな言葉は、ケセラセラ。
嫌いな言葉は、夢は必ずかなう。
今まで一度も幸せは感じたことがありません。
人とちょっとだけ価値観がいつも合わない。

そんな不器用すぎる、生きづらい人間のリアルをお届けします。

この日記を書こうと思ったのは、私が欲している意見や先人たちの生きる術がこの世になかったからです。
私は、自分がモラトリアムであることにはずいぶん前から気づいていました。でも、ここまでこじらせるとは正直自分でも思っていなかったのです。

モラトリアムとは?
モラトリアムとは何ぞや、そう思っている方も多いと思いますが、
モラトリアムとは、簡単に言うとなんか自分このまま生きてていいんだろうか?自分は何者なんだ?どうやって生きていけばいいんだろうか?
そう考えて、考えすぎてしまって、結局何も行動しなかったり、自分に向き合うことから逃げてしまったり、それでも自分とちゃんと向き合ったりする、主に大学生の期間中に見られる心理状態のことを言います。
正しくはちゃんと調べてみてくださいね。

で、先に、大学生期間のことを指すと言いましたが、何も大学生に限ったことではありません。
もちろん、これを書いているもふ美自身も、立派に大学卒業してます。社会人になったのに、まだ自分とは何ぞやがわからずに苦しんでいます。
つまり、主に若者に見られる、自分探し期間とでも簡単に言っておきます。

もふ美は、先にも申し上げた通り、今年の4月に新社会人として立派に大企業とやらに就職いたしました。
しかし、9月の頭に退職してしまいました。
まずは、その経緯についてお話します。

4月に入社した会社は、メーカーでした。全国に支店があるような大企業で、もふ美はもともと営業志望でした。しかし、配属されたのは本社の事務職でした。同期や友達からは、それはそれは出世コースだとちやほやされました。でも、もふ美は全然うれしくありませんでした。
もふ美は、東京の大学に通っていたこともあり、関東近郊で働きたかったのです。しかし、配属先は関西になりました。
住み慣れた土地とも、大好きな友達とも、そして家族とも離れた全く知らない土地でもスタートでした。それも、全部もふ美が望んだものではありませんでした。でも、これは大企業あるあるだし、配属ガチャとかともいうのでしょう。普通にちゃんと働く意識ができている人ならば、こんなことぐらいではへこたれないです。これが働くということなのだと納得できるはずです。
しかし、もふ美にはまだ納得できないことが続きます。
配属された部署は男性ばかりで、同性の社員がいませんでした。
また、年の近い人もおらず、大きな疎外感を感じました。
仕事内容も、人と会話をすること、動き回る仕事がすきなもふ美には厳しい、8時間ずっと座りっぱなしのデスクワークでした。社外の方とのコミュニケーションもなく、ただひたすらパソコンに向かい続ける日々。
新人だからと仕事内容も簡単なものしかなく、その日1日本当に何もすることがない日などがたくさんありました。
周りの同期は、着実に一人前になるために成長していて、私だけがいつまでも何も成長できていない気がしていました。
また、昭和の男社会感がまだ色濃く残っている会社だったため、本社に新入社員で女で入った私のことを、多くの社員の方が興味を持ちました。
その度に、私の上司は、私が早大出身であることを高らかにいうではありませんか。それだけならまだいいのですが、その言葉の次には必ず続く言葉がありました。
「早大出身なのに、うちみたいな会社でいいの?」
私は、その言葉にずっとずっと違和感を感じていました。
どうして自分の会社をそんなに卑下するのだろうか?
その言葉を聞くたびに、私は悲しくなっていました。

そんな日々も続きました。
何もすることがない私は、勤務中に私はこのままでいいのだろうか…そんなことばかりを考えてしまいました。
仕事を振ってもらえたと思ったら、数字を扱うことが多い部署だったため、根っからの文系の私には気が遠くなることばかりでした。わからなくて何度も先輩に質問して、メモを取って、たくさん自分で考えて、そんなことを繰り返しても確実に失敗してしまいました。その度に詰められて、社会人では、考えたけどわからなかった、できなかったは通用しないのだと気づきました。私はきっと、根本から働くことに対してどこか甘えていたのかもしれません。

だからかはわかりませんが、私は夏ごろになると適応障害になってしまいました。
仕事のこと以外にもたくさんのことが重なっていました。
全く知らない男の人がよく家のピンポンを鳴らしてきたり、
本社配属の同期と仲良くしていたのに、私以外の同期はみんな同じ部署の配属だったため、次第に仲間外れにされたり、
大学時代から付き合っていた彼氏とは、遠距離が始まり、そのタイミングから彼がそっけなくなったり、何を考えているのかわからなくなったり、
毎日嫌なことがたくさんあって、でもそれは本当に自分にとって嫌なことなのかもわからなくて、とにかく日々を生きてるだけでどんどん自分が削られていくような感覚だけありました。
最初はごはんが食べれなくなって、次に涙が止まらなくなって、次に吐き気が止まらなくなって…私は8月には1か月間休職することになりました。
その期間中、実家に帰っていました。でも、両親は全く歓迎してくれませんでした。それはそうです。特にひどかったのは父です。お前が甘えてるだけだ、お前がダメな人間だからだ、頭ごなしに私の今の状況を情けない、くだらない、大学まで出してやったのに親不孝だと言われ続けました。
ずっと生きた心地がしなくて、どうしたらいいのかずっとわからなかった。
両親は、せっかく大企業で福利厚生もしっかりしているのだから仕事はやめるな、続けろの一点張りでした。私も、だんだんそれがいい気がしてきて。

でも、戻ってまたちゃんと出社して、仕事ができている自分の想像がどうしてもできなかったのです。
こんな状態のままだと、また会社を休んだりして迷惑をかけるのは明らかなよう何がしました。
それに、実家というこれもこれで地獄のような環境でしたが、仕事から離れることで、少しだけ心が晴れて、少しだけごはんも食べれるようになりました。
きっと、会社からは離れた方がいいのだと、そう確信していました。
時期尚早だった、まだまだこれからだった、たったの半年足らずで仕事の何がわかるのだ、ただの甘えだ、どれも本当にそうだと思います。
しかし、最後は、自分が少しでも希望を感じられる方に生きてみようと思い、退職しました。

でも、一緒の部署の方は皆さん本当にいい方でした。たくさんのことを教えてくださって、たくさんやさしくしてくださいました。そんなお世話になった方たちのことを裏切ることになってしまって、本当に申し訳ないです。こんなに自分勝手に何かを決めたことがないので、どうすればこの罪を償えるのかはまだ自分でもわかりません。
でも、退職して2か月ほど経ちましたが、今は少しだけでもあの時退職してよかったと思っています。
それをちゃんとよかったと思えるようにしていけるのは自分しか、自分の行動でしかないと思います。だから、自分を納得させるためにもちゃんと生きねば。

これが一通り、大学卒業から社会人への転換期に起きた私の話です。
ここには書ききれない想いや考えたこと、見えていたものは今後ゆっくりお話ししていこうと思います。

9月頭に退職してから、災難なことは続きました。
10月に入ると、遠距離をしていた彼氏に振られました。
好きかわからなくなった、将来が考えられなくなった、しまいには嫌いだと、そんなひどい言葉をぶつけられて別れました。
私は、彼のことを本当に好きで、この辺りも後々お話ししますが、彼は今まで付き合ってきた男性と決定的に違っていました。そんなこともあり、私は彼に特別感を持っていて、彼との将来しか考えていませんでした。そんな矢先にこの別れ方。約1か月たとうとしていますが、今でも心に大きな穴は開いたまま、ひどく怖い夢ばかりを見て目覚めます。
本当に2023年は災難すぎる年です。こんな年はもう二度と巡ってきてほしくありません。

まだまだほかにも私を苦しめること、今年だけでもたくさんありました。
でも、今年だけがこんなに苦しいのか?災難が固まってやってきているのは今年で間違えありませんが、私の自分がわからない、どうしたらいいのかわからないともがき、苦しみ、心を痛め続けているのはきっと二十歳の頃からです。

2020年。コロナウイルス蔓延。その時私は大学2年生でした。

全部をそれのせいにしてしまっては、それは絶対違いますが、でも少なからず私のこのモラトリアムとコロナウイルスは関係があって、それはきっと多かれ少なかれ私と同世代の若者は感じたことなのではないのかと思います。

この物語は全部実話です。私は、変にプライドが高い人間で、周りの人に対して自分の話はあけすけに喋ることができません。
でも、ずっと誰かに話したくて仕方なかった。
だから、ここで、モラトリアムと決別すべく、私のすべてをお話しします。
こんな話が、今、未来、過去につながると信じて。
こんな話でも、青年期の焦燥感や無力感から、一人でも救われることを祈って。

たった一人の自分を自分が生きるんだ。

それではまた。

#モラトリアム #社会人 #新社会人 #適応障害 #短期離職 #大学生

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