父ちゃんはバンドマン6

■バンドマン、大人になりなさい■

子供の頃、大人になればコーラやオレンジジュースは飲まないもんだと思っていた。

子供の頃、大人になればお菓子は食べなくなるし、下ネタを男同士で話したり、ゲームで遊んだりしなくなるもんだとずっと思っていた。

子供の頃、大人になれば悩みなんてもっと難しい、経済や政治の事になると思っていたし、
誰かに何かを言われても傷付かないもんだとばかり思っていた。

ところがどっこい、30も半ばに差し掛かる時に蓋をあけてみれば、
オヤツを食べなきゃやってられんし、下ネタはベッラベラ話す。
今でも仲の良い友人達と夜通し楽しくゲームをしたいと思うこともあるし、
ほんの少しの事で傷付いてしまいウジウジ悩んでいるし、経済や政治についてはさっぱりだ。

大人になるという事は、なんとも曖昧なものである。
成人して酒が呑めるようになれば大人という解釈もあるのだろうが、あまりにも曖昧なこの境界線をキチンと仕切るなど出来ないような気がするし、
私にとっては昔からの、ヒドく深刻な悩みの一つであった。

少し前の事、誰にどうしてとは言わないが、かなり久しぶりに「クォラァー!!」と怒鳴り散らしてしまい、直後に猛烈に反省した。

私は昔から特に臆病で、何かの拍子に他人と衝突しようものなら、すぐに声を荒げたり、子供の頃などは暴力に訴えて相手を叩き伏せる事も少なくない、まぁお世辞にも温厚な人間とは言えないヤツだった。
そんな私も今や結婚し、子宝を授かり父親になったわけだが、私の場合、丸くなったなどと大それたものではなく、
そうしなければ、少しでも大人にならなければ、家族と一緒に生きていくことなど出来ないと痛感し、
半ば強引に自分を変えようと、妻に助けてもらいながら、教えてもらいながら少しずつ変わっていけたのだ。

あくまでも私個人の考え方だが、
日常生活において楽をしない事を大人と呼ぶのではないだろうか。
というよりも、楽な方を選ぶ事が必ずしも正解ではないということを理解すること。
逆を言えば、子供は何かにつけて楽をしたがるものだと思っているのだ。
要は「最短」ではなく、「最善」を選ぶ人の事を言うのではないかと思っている。

大人になればなるほど、感情をぶつけ合っての喧嘩をしなくなる。
感情を発散するその方法はひどく楽ではあるが、根本的な解決にならないと知っているからだ。
しかし、良い歳こいてちょっとした事で怒鳴り散らす人というのは、問題と向き合う事が面倒で楽な道を選んでしまう人なのではないかと思うのだ。
そうすることで何とかなってしまった経験がある人は尚のこと質が悪く、根本的な解決は一切していないのに、それが正しいと勘違いしている場合があるからだ。

人間関係のことだけではなく、私生活でもそうである。
私が「大人だなぁ」と思う人は面倒な事を先延ばしにするともっと面倒な事になることを知っている。
だから洗濯物も洗い物もさっさとやってしまうし、ある程度翌日の準備もしてしまう。
逆に私のような未熟者ったら、面倒なことはすべて後回し。結局土壇場になって痛い目に遭っている愚者である。結婚生活において少しはマシになってきたが、根本的には大して変わっちゃいないのだ。

結局私が怒鳴り散らしてしまった事など、まさにそうである。ずっと楽な方を選択していたのだろう。
冷静に話し合えばわかってくれるかもしれない事を、いくら鬱憤が溜まっていたからと言って怒鳴り散らしてしまえば伝わるものも伝わらない。
幸いそのあとすぐに冷静に話が出来る場面となったが、
やはりこんな図体のデカイ人間に怒鳴られた事を考えれば、相手にもしっかり伝わっていたかどうか定かではない。
お世辞にも、「最善」を選んだとは言い難い結果であった。
仮に子育てにおいて、我が娘に同じことをしてしまったことを想像してみると、考えるだけで嫌な気持ちになる。

大人同士であっても問題なのに、
子供相手に怒鳴り散らしてしまうなど、まったくもってフェアではない。
一般的な子供はどう足掻いたって大人には勝てない。
腕力であれ知力であれ、今まで生きてきた年数も、身長体重も違うのだから当たり前だ。
ましてや暴力に訴えて子供を教育するなどもっての他であって、果たしてそれが教育と言えるのか甚だ疑問だ。

昔のように、失って困るものなど大して持っていなかった私にとって、わざわざ苦労して「最善」を選ぶ必要などなかった。すべてが自分に帰ってくるわけだから、自分さえ困らなければ何の問題もないわけだ。
しかし、今の私には失ってはならない大きな大きな幸せがあるのだ。
その幸せをちゃんと守るためには、感情任せの力業では守りきれない。
何も襲いくる理不尽に対して指をくわえて黙ってみてろというわけではない。
正しく怒り、正しく戦うことが大切であると学んだのだ。
そうしないと、結果的に不利な立場に陥りかねないからだ。

私ももう30も半ばに差し掛かろうとしているいいオッサンだ。
理論も何も知ったことかと怒鳴り散らして暴れまわる姿を、娘に見られるのは避けたいものだ。
この大きな声はどこにいても歌をうたうためのものであり、
この有り余る力は妻には持てない重いものを持つために使うのだ。
この大きな体は、娘を少しでも大きな愛情で包み込むために使うのだ。

怒りをろ過して言葉を絞り出すのは容易な事ではない。
支配されたままでは大切な事も見えなくなるし、ついつい怒りを発散させるためだけに罵詈雑言をぶつけることに意識が向いてしまいがちだが、それで自分の気が済んだところで物事が丸く収まった試しがない。
結果的に嫌な気持ちになることしかないのであれば、少しでも解決に向けて尽力した方が身のためである。
そう、晩酌や少年ジャンプよりも先に、洗い物と洗濯物を片付けてしまった方が良いのと同じだ。


ただし、牙を抜かれた獣になれと言う意味ではない。
よほど理不尽な暴力が家族に襲いかかりそうな時に限り、危害を加えられる恐れのある瞬間に限り、遠慮なく暴虐の限りを尽くしたいと思うのであった。(言い方)
次回はそんな暴力の権化になりかねなかった、とある事件について書こうと思う。

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