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「普通」なんて存在しないと思う。

誰かと比べて、私なんかが苦しんじゃいけない、若しくは、私は苦しまなくちゃいけない。そんなふうに思う必要はない。これを書いている「私」、そしてこれを読んでいる「あなた」は、この世で唯一無二の存在。代わりのきかないもの。

だから、私が苦しいと思うのなら苦しいと思っていいし、しんどいと思うのならそう思っていい。そこにそう思っちゃいけないだとか、はたまた、そう思わなくちゃいけないだとか。そんな決まりはない。それはあなたも同じ。

私達はそうやって、「普通」と言うモノサシを基準に、その答えを求めたがる。例えば、私は普通だから苦しんじゃいけない/苦しまなくちゃいけない。あなたは普通じゃないから苦しんでいい。そんな簡単に分けられるほどこの世界が単純じゃないことは、周知の事実だろう。

確かに、「普通」と言う基準を用いることで、一般的な平均値が分かる。それは生活や経済、幸福を測る上では、もしかしたら必要なのかもしれない。

ただ厄介なのは、「普通」とされる多数派の一部の人達が、あたかもそれが絶対的な正解であるかのように、そうではない人達に対して、我が物顔で威張ること。

その人達に言いたい。この世界は、あなた達だけのものじゃない、と。

そうやって唯我独尊になることで、少数派、一般的に「普通」とされずに生きづらさを抱え、生きている人達が、この世に数多く存在している、と言うこと。

その事実に、社会的に「普通」とされる多数派の人達は、一体どの程度、気付いているのだろうか。若しくは、それにどれだけ、気付こうと言う努力をしているのだろうか。

私は思う。この世に、絶対的な正しい答えなんてないと。そして、絶対的な間違いというのもまた、存在しない。

誰かにとって普通と思うことも、また違う誰かにとっては、普通じゃないかもしれない。当たり前なんて、所詮はその人一人の、解釈でしかない。

ただその一人の普通が一定数いると分かった時、それが社会の「普通」として、名を轟かす。そういうことなんだと思う。

これを書いている私自身、「普通」の多数派にいるのか、そうではない少数派にいるのか、明確にすることがまだできていない。でもそれでいいとも思っている。

あることに対しては多数派であるかもしれないし、違う何かに対しては少数派と言われるのかもしれない。そんな簡単に白黒つけられるものではないんだと思う。

ただそれを理由に、他人や自分を傷付けることは、できればしない方がいいんだと思う。傷付けるよりも、守るためにそれを使う方が、まだいいのかもしれない。


読んでくださってありがとうございます。

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