スペインの夏目、日本の漱石
夏目漱石が色々教えてくれましたが、きっと日本の高校で読ませたら僕の印象は全然違ったなあ、と日本人に夏目漱石の「こころ」について話すときに思う。
明治時代の文豪、夏目漱石は少し重い印象がありませんか?文体はやっぱり100年以上前なので若干の難しさを感じる人が少なくない気がします。僕も初めて夏目漱石を日本語で読んだ時にそう感じた。ただ、確かに文体は非常に整然としているというところに驚いた。必要なものだけが揃っている、邪魔なものが一つもないと、「こころ」を読みながら何回も思った。
初めて夏目漱石を読んだのは16歳だった。
日本文学というものを発見したばかりだった。谷崎潤一郎の「瘋癲老人日記」と芥川龍之介の短編小説ぐらいは読んだぐらいで、たまに行っていた書店のアジア文学の本棚に親しみを抱きつつあった。
その本棚で「こころ」を見つけたが、作家の名前とその作品が初耳だった。表紙の写真からすれば最近の小説じゃないと思い、とりあえず買って読んでみた。
あれはスペインの夏目漱石だったと今思っている。
パラパラとページを捲り、先生が起こした悲劇を理解しようとした。しかしながら、スペインの夏目漱石にやっぱり彼が生きた時代の風景が僕に見られなかった。
明治時代はどれほど日本の歴史に大事だったのか無知な僕は、先生と「私」の関係に没頭した。
なぜ先生が自殺するまで至ったことも、ある程度日本の思想、特にあの頃の思想と夏目漱石自体の人生論がわかっていないとすぐに分かることが難しいだろうか。スペイン語版を読み終わった後そんなことをしようと思わず、次の日本人作家を探し始めた。
日本語版の「こころ」を読んだ時は数ヶ月ぐらいのことだ。ゆっくり読むようにした。「坊ちゃん」は意外と難読だったから夏目漱石をまた読むことに少し抵抗感があったが、読み始めたら日本の夏目漱石にやっと会えたと深く感じた。
やっぱりスペイン語では明治時代で使っていた日本語が全く味わえないのが分かった。確かにあの時代の文体は硬い。だが、「こころ」の文章が小綺麗に整えていて、読むと段々心のどこかも整える気がする。描写の文が短いと気づいたらそれがスペイン語版でも印象的なところで、「先生と遺書」に着いたところ、スペインの夏目と日本の漱石が違っても同じ人だと何故かあんなに時間がかかって2人が僕の頭で繋がった。
スペインの夏目漱石は難しい文章を書く作家ではない。読むことが意外と簡単で、登場人物が心の中で感じているものが聞こえてくる。
一方、日本の夏目漱石はいかに日本語をマスターし、主人公たちが抱いている悲しみが目の前に見えてくる。
しかし、これは結局のところ、スペインと日本の夏目漱石ではないと認めざるを得ない。
これは読むことを通じて作ってきた唯一の夏目漱石で、「こころ」を改めて日本語で読むことで誰もが自分の夏目漱石を持っているということに気づくことができた。
僕には日本の高校の国語授業で夏目漱石の名文を読むことがなかった。あるいはイギリスの公園に座って英語で読むこともなかった。世界中で夏目漱石の小説に出会って、新しい夏目漱石を見つけ出す。
つまらない夏目、悲しい漱石。
猫好きの夏目、人生の生き方を見せてくれた漱石。
これを考えると、文学の素晴らしさに頭が下げる。いや、頭を下げるよりも、大きな海に向かって拍手をしたくなる。
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