明日の魔ぼろみ

どうも、2022年に来日したスペイン人です。 翻訳の仕事をしていますが、自分から何かを…

明日の魔ぼろみ

どうも、2022年に来日したスペイン人です。 翻訳の仕事をしていますが、自分から何かを書くことも好きで結局ここで色々な考え事やフィクションのものを書くことになりました。 好きな作家は川上未映子、川上弘美、吉本ばなな、村田沙耶香、などなど。 よろしく!

最近の記事

雀の落下とドアの声(短篇小説)

貴方は遠くなかった。家の前に佇んでいた。 私は悶えていたが、静かにいれば邪魔にならないからそれでいいと思った。そして貴方を道路の真ん中から見詰めながら心に息が通っていないことを忘れようとした。 それでも貴方は佇み続けた。それは日常に欠かせない礼儀かのように。 死んだ人を待つのはどうも不要なこととはそこまで思わないが、それが死を待つことになってしまう恐ろしさが貴方に感じることができないのを私は知っていた。だから悶えを静かに乗り越えてみる。車が私を吹き飛ぼしてもいいが、もしこの道

    • スペインの夏目、日本の漱石

      夏目漱石が色々教えてくれましたが、きっと日本の高校で読ませたら僕の印象は全然違ったなあ、と日本人に夏目漱石の「こころ」について話すときに思う。 明治時代の文豪、夏目漱石は少し重い印象がありませんか?文体はやっぱり100年以上前なので若干の難しさを感じる人が少なくない気がします。僕も初めて夏目漱石を日本語で読んだ時にそう感じた。ただ、確かに文体は非常に整然としているというところに驚いた。必要なものだけが揃っている、邪魔なものが一つもないと、「こころ」を読みながら何回も思った。

      • 魔女のためらい、あるいは先日のとむらい(小説の始まり、もしくは短編小説)

        こたつの上で水晶が優しく浮かんでいた。私のためにピンク色になり、どこへも行こうとしなかった。こたつの冷たい面とその水晶の間に先生の言葉が固まっていった。 ちゃんとした榎から作られたテーブルではなくても、安っぽいこたつでも別に問題なしと囁いた。お金が貯まらないのは私のせいではないし、きっと料理用のまな板でも行けたしと、固化が乱れる恐れを抑えんがら私を安心させた。が、自分に安心感を与えながら先生の言葉を同時に見守ることはこの身体がいつまで耐えられるだろう。前の言葉よりも心臓の動悸

        • 静かな狂乱を見つめる〜シルヴィア・プラスの「ベル・ジャー」〜

          17歳からヴァージニア・ウルフの本が大好きで読むたびに新しい世界を見せてくれるような経験だ。しかも最初全く分からなかった「ダロウェイ夫人」を再読したらあたかも主人公たちの体に入り、悲しみと喜びが混ざったような狂おしさ&どうしようもなさを味わった。 ウルフに並び、抒情的に気持ちの複雑さを描く作家はシルヴィア・プラスという20世紀半ばを生きたアメリカ作家だと知ったら、まず詩集を読んでみた。あの時僕の英語でギリギリ理解できたけど詩というものは意外と難解な単語が使われるような気がする

        雀の落下とドアの声(短篇小説)

          悔しさを増していく空しい花畑を燃やさないこと(語彙力や文章力等)

          何を書いても綺麗な言葉で伝われない、いつも使っている言葉が退屈で書きたくならない、と思っていた、もしかして思っている日々であった(もしかしてである)。 語彙力を高めたい、本当に合う言葉を選べるようになりた、なのに見てこのどうでもいいポッピーと雑草の冬に食われる花畑、どうしたのと聞きたくなるよね。でも花畑は悲しまない。そこにいるだけで自分でいることしかできない。僕の目的(責任と言ってもいいかもしれないけれど)はその語彙力&文章力という花畑を自然の驚異と言ってもいいほど美しい場所

          悔しさを増していく空しい花畑を燃やさないこと(語彙力や文章力等)

          川上未映子の「発光地帯」と木で泳いでくれた太陽

          本に救われることは誰にも起こりうることだけれど、あっこの本に救われてほしい!さあ涙を隠しながら台所のテーブルで読もう、というようなことは違って救われる本を選ぶことは不可能に近いと思う。 また、その本はその慈悲を見せるのか、どのように自分をめくる闇の毛布から出させるのかまた想像し難い。少なくとも私には全くその期待をしていなかった時に救われた本ばかり気がする。しかもあっ、救われたい!お願いします!と言わんばかりにその本を取ることが一度もなかった。 自己啓発本はより直接的に読者に向

          川上未映子の「発光地帯」と木で泳いでくれた太陽

          小川洋子の「ホテル・アイリス」、あるいはスペインの書店の密やかな本棚

          あの頃、都市のよく行っていた本屋さんで日本の現代作家を発見していった。川端康成や谷崎潤一郎じゃあ満足がいかなくて違うものを探し始めた。 あの本屋さんで日本作家の本は「アジア・アフリカ文学」という大きくない本棚で密かに並んであった(残念なことにスペインではそういう並べ方が多い気がする)。そこで僕があまり考えず、ただ取り出してレジで支払いをするだけだった。感じることが多かったが思考はその本たちを読んだ後に行うことにしていた。 ある日その小さな本棚に小川洋子の「ホテル・アイリス」と

          小川洋子の「ホテル・アイリス」、あるいはスペインの書店の密やかな本棚

          誰かに語りかけないこと

          忘れられるはずのある白紙に自分の頭に泳ぐ幼い頃の木漏れ日、消費期限の切れたあんぱんへの悲しい想い、2週間前にあのあまり面白くなかった小説の浅い感想を書くこと。 その行動に意味があるのか、といざ脳裏で生まれたから私と一緒にいる声が問いかける。でも日記に書くことは結局そのことではないか。ボロボロになりかけた白紙にせよロフトで買った美麗なノートにせよ誰にも語らないでただそこで自分の欠片を頭の語彙を絞り出しながら書く。 もしかして未来の私は今の私とあたかも赤の他人になろうとも、結局の

          誰かに語りかけないこと