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川上未映子の「発光地帯」と木で泳いでくれた太陽

本に救われることは誰にも起こりうることだけれど、あっこの本に救われてほしい!さあ涙を隠しながら台所のテーブルで読もう、というようなことは違って救われる本を選ぶことは不可能に近いと思う。
また、その本はその慈悲を見せるのか、どのように自分をめくる闇の毛布から出させるのかまた想像し難い。少なくとも私には全くその期待をしていなかった時に救われた本ばかり気がする。しかもあっ、救われたい!お願いします!と言わんばかりにその本を取ることが一度もなかった。
自己啓発本はより直接的に読者に向かって「あなたはもしかしてこうだからこれをしてみるが良い!」もしくは「前このような状況に陥った私でしたがこんなことをし始めたら人生が逆転してこんな人になりました!だからあなたも必ず今実感している辛さを乗り越えて立派な人間になるはずさ!」というような話をする。もちろんそれは全く悪いことではなく、今これを求めているからこの話をしてくれるあなたに走ってきました、何かのアドバイスをいただけますでしょうか。なんと言えばいいでしょう。カウンセリングにより近い経験といいますか、個人的には自己啓発本を読んできてこのようなイメージを持っている。だから自己啓発本はいいタイミングに会えれば助かるとは思う。
多分重視したいのは先に述べた救われ方の違いかもしれない。
いや、それだけではなく、もしかしてエッセイや小説に救われることは自分が救われることを願わず、求めず、ただあっ、自分が誰かにこの経験を語ってほしかった、このように透明な手を長い間繋いで一緒に成長し、その言葉を今読んでいなくても、その人物は架空な者であったとしても、教えてくれた光の景色は目の前にある。そうだったんだ、僕がこの景色を探していたのだ。

例えば「発光地帯」。
あの時はほとんどアパートで引きこもってどうでもいいゲームに脳を潰していた。先の道が霞んでおり、ゲーム以外にアパートの掃除ぐらいしか考えられなかった。
「発光地帯」を買った理由はただ川上未映子の本だからだったが、読む気分にならず本棚で石のような存在になってしまいそうだった。
さて何読もうかなあとぼんやり思い、あまり悩みたくなかったから「発光地帯」にした。この本は2011年に出版された、食べ物をモチーフにした日記的なエッセイ集だった。ソファで少し読み始めたけれどまだその本の魔法に一粒たりともかけられていなかった。
あの眩しい魔法が私の身体に染み込んだのは2022年12月頃の晴れた日だった。特に理由がなかったけど取り敢えず吉祥寺に行ってみて井の頭公園で散歩してみようかなと少し迷いながらバッグに「発光地帯」を入れてアパートから出て行った。
東京駅での乗り換えだったけどそこについたらすでに何かを感じ始めた。そこまで15分しかその本を読んでいなかったけど川上未映子が語っていた「なんとなく私は生きている。そしてなんとなく料理を作り、食べている。そう言えば昨日は寒くて涙が目を離れそうだった」(これはいうまでもないが私が今あまり考えないで書いた粗末な物)というような日常の生活に没頭した。そしてエスカレータにいた時突然イアホンからスティーヴィー・ワンダーの「As」が流れていき、踊りなくる気持ちを抑えながら少し笑った。
もう一度電車に乗って「発光地帯」の世界に移動し、人生はこういう物だったんだ!と初めて知ったような驚きの顔で電車と言葉に優しく揺らされた。
たまに川上さんの言いたいこと、伝えたいことがよく理解できない時がある(特にエッセイと詩では)けど、彼女の魔法の素晴らしさは確かに理解せずに自分が飛べそうになっている感覚にあると思う。
井の頭公園に着いた時に身体だけではなかった。公園自体も光に満ちており、そこで去っていく人々が何らかの光を見せ合っているような気さえした。
ベンチに座ってパンをかじった。隣にいた木の鱗で池の水面が太陽の光をそこまで運んでいた。一瞬一瞬、新しい光と昔の光が僕を見つめてくれていた。そして僕も再発見した輝く自分を見せたい気持ちになった。
公園で泣かなかった。パンを食べ終わった後、三鷹までてくてく歩いた。その日に「発光地帯」を読み終わらなかった。ただ、今日読ませてくれてありがとう、そして僕を見せてくれてありがとう、と感謝した。今思いだすと少しおかしいけれど。

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