見出し画像

悔しさを増していく空しい花畑を燃やさないこと(語彙力や文章力等)

何を書いても綺麗な言葉で伝われない、いつも使っている言葉が退屈で書きたくならない、と思っていた、もしかして思っている日々であった(もしかしてである)。
語彙力を高めたい、本当に合う言葉を選べるようになりた、なのに見てこのどうでもいいポッピーと雑草の冬に食われる花畑、どうしたのと聞きたくなるよね。でも花畑は悲しまない。そこにいるだけで自分でいることしかできない。僕の目的(責任と言ってもいいかもしれないけれど)はその語彙力&文章力という花畑を自然の驚異と言ってもいいほど美しい場所に変えたい。
語彙を磨く力、語彙力がみるみる伸びる!そのような本が飽きるほど多い気がする(アマゾンで探すことがその理由かもしれない)のに結局のところ答えは同じでしょうね。本を沢山読むこと、辞書で意味を調べること、自分でその言葉を使って文を書いてみること。でも問題はその本ではなくて、そもそも僕がその花畑を信じないことにある。
高校生から日本語を勉強してきたわけだけれど、小説を読むことで自分の花畑が醜く見えてしまう時がある。
わあ山田詠美がこんなに上手に書けるのに見て僕の下手な文章きっと小学校2年生の方が鮮やかかつ感動させる文章が書けるに決まっているじゃない、と脳裏のどこかで考えてしまい、書きたくても不信の壁とぶつかって何回も諦めてしまった。
味噌汁を飲む夫の姿を見つめる主人公の話を思い出す。2年前に留学していた時、短編小説を書くことに挑戦した。世界の終わりがもしかして近づいているけどそれでも主人公が仕事場ばかりにいる夫のために長いネギを切って味噌汁を作るけど夫の鼻から透明な鼻水が茶碗へ落ちる瞬間がある。もしかしてその短編小説で僕が10分の間だけ書きたかったかもしれない。でもその10分すら書き終われなかった。
今振り返ってみると日本語で書く自分の姿に信用していなかったと思う。日本語で小説が書けるようになる遠い夢を見つめながら涙を抑え、この花畑じゃあどこにも行きやしないと口惜しく生きていた。
母語ではないからそうなってしまったのもあるだろうし、自分から真剣に自信を持ってその花畑に美しい植物を植えながら書くことがなかったのもあろう。3年前の文章を読み返すだけで身体が震えてしまいそうで僕はまだ何も知らないと少しの絶望に襲われてしまう。


そして自分の成長をちゃんと見ていない、認めていないのも花畑が空しく見える理由の一つでもある。
才能の確認なんて要らない、才能という言葉がもともと疑わしくて聞こえるとそこから走りたくなる。
自分を削らない努力で前に進むこと大事だと思っているけどそれは意外と細い道で歩きづらい。今日は1500文字ぐらい書けただけで自分にご褒美をあげたくなるようになりたい。前と比べると健康な自信が着いた気がするけど、多分欠如していたのは書いている姿を心から信じて追っていくことだろうか。
また、日本語上手ですね!とおはようございますを言っただけなのに褒められることがあって何故か逆にその言葉が僕の日本語の自信を揺らしてしまう時もある。でもこれは違うテーマだから今はあまり触れたくない。
ただ、ここまでこのろくでもない僕を慰めるための文章のようなものを書いてきて、その姿が幽霊に近い淡い存在ではない。むしろ初春の風に運ばれていく花びらのような、堅実さに欠けていてもどこにも、一瞬後で土に落ちる可能性が高くても、微かさを失うにつれて独立性を増していく存在である。
僕の花畑もそうなっていけばいい。ゆっくりと広くなり、独特な花が少しでも植えており、澄んだ空気が通っている場所でもいい。もちろん自分から動かなければ何も変わらないだろうが、そう思うだけで肥料にもなるでしょうね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?