静かな狂乱を見つめる〜シルヴィア・プラスの「ベル・ジャー」〜
17歳からヴァージニア・ウルフの本が大好きで読むたびに新しい世界を見せてくれるような経験だ。しかも最初全く分からなかった「ダロウェイ夫人」を再読したらあたかも主人公たちの体に入り、悲しみと喜びが混ざったような狂おしさ&どうしようもなさを味わった。
ウルフに並び、抒情的に気持ちの複雑さを描く作家はシルヴィア・プラスという20世紀半ばを生きたアメリカ作家だと知ったら、まず詩集を読んでみた。あの時僕の英語でギリギリ理解できたけど詩というものは意外と難解な単語が使われるような気がする。だからあくまでの挑戦としてあの詩集に没頭してみた。失敗だったと聞かれればいやそこまで行かなかったがやっぱり分からないことが多かった。ただあの詩集の最後の詩が特に気になった。全体的に考えてみれば段々暗いところへ落ちていくような経験だったけど、決して暗い闇ではなく、煌めく闇だった。三島由紀夫の「金閣寺」みたいに。自分が一体正しいところに向かっているのか分からず、生きる価値は飛びと一緒に旅出したが自分はその鳥たちを見つめることしかできない。ではせめて世界に、我が身に火をつけよう。世界はすでに燃えているからいずれ我が身も燃えて仕舞えばそうすればいいのではないか。
読む前かその後だったかよく思い出せないが、シルヴィア・プラスについて調べたら30代ぐらいにオーヴンに頭を入れて自殺したという。ヴァージニア・ウルフの場合は川に身を捨てる自殺だった。
ウルフの作品では自殺、死にたい気持ち、というような話題が少ない。自分が果たして本当に生きていることに対する疑問が見られるが。
先週、ようやくプラスの代表作「ベル・ジャー」を読む時が来た。1963年、プラスが自殺する1ヶ月前に出版され、自伝書に近いと言われている。
主人公のエステルが若い、まだ生きる危うさを意識せず(と思われる)ニューヨーク市に来た。そこで、パーティーに行ったり、他の若い男女と会ったり、小説を書く夢を描いたりしている。始めはF・スコット・フィッツジェラルドの小説に出てくるような雰囲気を思い出される。若いころに吹き出す希望と熱情、そして艶やかな他人に惹かれること。しかしプラスの場合は、みんながこんなに楽しんでいるのに私の中をよく分からない黒い虫が蠢いている。その虫がエステルがニューヨーク市で経験を連なるにつれて読者に聞こえてくる。
僕にはその虫が精神障害だと思った。もともと母との関係が良くなかった。ニューヨーク市に来る前に男の子と振られた・騙された。都市に着くと心が痛まれるばかりだ。
なぜエステルの心があんなに傷つかれるだろう。特に悪意が全くないのに男の欲望に
使われてしまう、騙されてしまう。エステルがただ小説家になりたかったのに。
結局エステルの病みが大きくなっていく。ニューヨークで夢を諦めかけのままで母が待っていた実家に帰り、そこで小説を書いてみるが言葉が薄れてゆき、物事の意味が闇に落ちる。おまけに眠ることができなくなっている。
個人的に、この小説の大事なところは精神障害を担う人たちが社会にどれだけ冷酷な扱い方をされていることだ。ニューヨーク社会がエステルを壊そうとしていると何度も頭の中で思った。救いを求めていたエステルが抱きすらしてもらわず、精神病院で治療を受ける。しかしあのころのアメリカでは(いや、世界中でもそうだった気がするけど)電気ショック療法が精神障害を治すことができると思われていたが、逆にその療法はエステルをさらに痛み、自殺することを決心する。
最後まで説明はしないが、シルヴィア・プラスが最後までどれだけ苦しんだのか、想像してみたが、おそらくエステルより苦労し、誰にも自分の心の嵐をきちんと見てもらえず、詩とこの小説は小さな隠れ家になっていた。あるいは自分の中で一体何が起きているのかを判ろうとし、このような物語を縫うことが彼女にとって必要だったかもしれない。
この小説を読むことは誰かが静かに狂乱に襲われるが、外の世界に少しその狂乱を見せ出してもその仕方も静かでも乱暴でもあると思った。
必死に救われて欲しいからどれほど私の心が荒地になっているかを見せましょうか。それでもあなたは苦笑するでしょう。みんなのように去っていき、私の狂乱を無視するでしょう。ただあなたに一つ尋ねたいことがある。もしあなたにもこのような狂乱が襲ったら普通の人間として生き残れるのか。
というかのように、エステルもプラスも沢山の読者たちの前に現れた。この小説を読むことが辛くなっても価値のある、文学の力を教える小説でもある。
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