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中学生時代のソフトテニスが私の思い込みを変えたこと

1997年の4月、私は地元の中学校に通うことになった。
入学式が終わり、新しい学校生活とともに、部活の見学も始まった。

私は絵を描くのが好きだったり、星を見るのが好きだったので、美術部と天文学部を見学した後、母に希望する部活を提案してみた。
しかし、母からは恐ろしい回答が返ってきたのだ。







「あなたがどちらかの部活を選んだら、家に帰ってきたらお母さんと一緒にトレーニングしよう」
続けて母はこう言った。
「もし、運動部を選んだら、帰宅後のトレーニングはなし」







私は言葉を失った。
家に帰ってからトレーニングやりたくないし、これは「運動部に入りなさい」と言っているようなものだ。
だが、鬼のような母の教育のもとで育った私に選択権がないに等しかった。

そんな母だが、決して私に嫌がらせをしたいわけではなく、色んな思いがあってのことだと感じた。
母は学生時代は中高6年間バレーボールに情熱をかけており、帰宅後もずっと練習をしていたと、私に話してくれた。
その話を聞くと、母は努力家で心から尊敬はするが、私にはそこまでの熱量を持ってスポーツに打ち込む気がなかった。
しかし、母の教育方針はスパルタでとても怖かったのだ。
小学生の頃は2歳離れた弟と口喧嘩をして、私が言葉で弟を負かして弟を泣かせると鬼のような形相をした母のビンタが飛んでくるのだ。
顔面ではなく、太ももに一発だけ。
そんな優しい面もあるが、気性が激しいため、これを断った後のことを考えると恐ろしくて断れず、渋々運動部を探すことにした。

運動は苦手だし、あまり気がすすまないのだが、申請期限ギリギリになってようやく部活動を決めた。
それはソフトテニス部だった。
バスケのようにたくさん走らなくて良さそうだし、バトミントンならやったことがあるから似たような感覚だろうと思い、仮入部を申し込んだ。

家に帰ってそのことを母に報告すると母は喜んで色々伝えてくれた。
「1年生の仕事はボール拾いと声出しだよ」
他にも準備や片付けは1年生が率先してやることや、先生の話は目を見てしっかり聞きなさい、など真剣に私に話してくれた。

部活が始まり、先輩から準備の仕方、ボールの確認など細かいところを同級生と一緒に教えてもらった。
入部の申請が一番最後だった私は、ラケットの発注が遅れたらしく、しばらく自前で用意した中古のラケットを使って練習をした。
部員の中でも走るのは一番遅かったし、フォームや打点の技術を覚えるのが苦手な中、なんとか練習を続けてきた。

入部して10日過ぎた休日練習の前に、ようやく新品のラケットが届いたのだ。
みんなと同じデザインの新しいラケットが嬉しくて、さらに練習に励んだ。
しかし、事件が起こった。
ラケットが届いた初日、休憩時間中に誰かが私のラケットに悪戯をしたのだ。
グリップ部分にガットというラケットの編み部分の紐でグリップが握れないほど何重にもぐるぐると巻きつけられていた。
それだけでなく、私のラケットの真横に原寸大のリアルな蜘蛛のおもちゃが置かれていた。

私は普通の人と変わった視点を持っていたため、感情的になるどころか「なぜ、こんなことをするんだろう?」と考え込む癖があり、しばらく黙っていたら、同級生の女の子たちが先に声を上げた。
「こんなことをしたの誰?、男子たちでしょ!?」
十数名いる同級生の男子部員たちは、しらばくれていた。
そんな中、私は淡々と紐を解き、「不思議なことが起こるんだな」と冷静に思いながら練習を再開した。
あまりことを大きくすることもないだろうと思っていたので、それほど気にしなかった。

放課後の練習ではまず、外周を3週走ることから始まった。
私は走り方が独特だったので、いつも一番遅かった。
顧問の先生も一緒に走っており、先生にいつも背中を押す言葉をかけてもらいながら、なんとか走り切ることが多かった。

その後、レシーブの練習が始まると1年生で唯一、私だけが飛んでくるボールを拾いまくった。
私は母に言われたことだけを淡々とやっただけ、他の同級生が全く動かなくても、ひたすら拾い続けた。
同級生に対する文句も批判も私の中にはなかった。
ボールを拾いたい人が拾えばいい、そんな風に思っていたのだ。
時間を忘れてひたすら、転がっているボールを拾ってカゴに戻すだけだが、カゴはすぐに空になるので、空になる前にボールを拾いに行く、ということの繰り返しだった。
ボールが体に当たってレシーブの練習を止めないように、腰をかがめてボールを拾い集めた。
ソフトテニスなので、たとえボールが体に当たってもさほど痛くなかった。
実は学校の部活動以外にも地域のクラブ活動にも参加しており、スポーツを週1日やっていたので、それに比べるとかすり傷のような程度だったからだ。

平日の朝練では、練習開始の20分前にコートの整備を私一人で始めていた。
土のグラウンドをキレイにブラシで均して、線を引いて、ネットを貼って、2面分のコートを1人で整備していた。
同級生たちは遅刻が当たり前で、開始時間の朝7時を過ぎてからグラウンドにやってくるのだった。
おそらく、手伝うという考えもその気もなかったのだろう。
私も自分が勝手にやってるだけで、同級生に声をかけなかったのだ。
周りの対応を気にすることなく、とにかく私のやるべきことだけに集中するタイプの子だった。
同級生にも協力を仰がない私の様子を見かねた先輩たちは心配しているようだった。

ある日、放課後の練習が終わった後、先生から部員全員に話があった。
この話を聞いて私の中の思い込みが変わった。








「今日はみんなに話したいことがある。練習後だが少し付き合ってくれ」と言い出し、何を話すのかと思って先生の目を見た。
「練習の様子を見ていて、輪島はすごいと思う。1人でボールを拾って、早朝のコートの準備も1人で率先してやってる。本当に頑張っていると先生は思う。」
突然、私の話が出てきてすごく驚いた。
家でも褒められたことがなかったので、予想外の出来事に私は頭の中が真っ白になった。
目立つことは苦手で、注目されたいとも思わず、控えめに行動していたいタイプだったからだ。
ましてや頑張ったつもりもないのに、「頑張ってる」と評価されたことにも衝撃だった。
やりたくて始めたわけでもないソフトテニスだけど、母から言われたことを忠実に守っただけだからだ。
先生は続けてこう話した。
「みんなはどう思う?輪島1人に任せていいのか?関係ないと思うのか?そこをどう思ってるかを知りたい」
先生は部員の目をしばらく見つめた。
「今この場で答えなくていいが、どうしたらいいのか気づいたら行動してほしい、以上だ」









私は呆気にとられていた。
自分の行動が人からどう見えているのか知ろうともしなかったし、気にもしなかったのだ。
それを初めて知って、人は私が淡々とやっていたことを「頑張っている」と見ているんだと認識した。
私自身は頑張っている感覚は全く無く、誰かに手伝ってほしいと思ったことも一度もない。
関わりたくないということではなく、気づいた人が率先して行動すればいいと思っていただけなのだ。

人間関係においては辛くて苦しいと悩んだことが少なく、むしろ、それ以外で楽しいと感じることの方が多かった。
ゲーム形式の練習では、誰もが打ち返せるわけがないと思うようなネットギリギリに落ちるボールを、後衛のポジションから全力で走り込み、奇跡的に打ち返す瞬間があったり、外周を走ってる時に聴こえてくる吹奏楽部の音楽に勇気づけられたり、苦しい練習の中にも小さな楽しみを見出すことができた。

その時の私は大きな目標も特になかったが、ひたすら動くのが楽しかったのだと思う。
何も考えずに動いているだけなので、「頑張る」という感覚がなかった。




人は気が進まないことでも、まずは言われたことだけでもいいから動くことで、見えてくることがあるんだと、知るきっかけになった。
先生の応援や暖かく見守ってくれた先輩方のお陰で、3年間、最後までやりきることができた。

当時は嫌々やっていたが、今では運動部を勧めてくれた母に感謝している。このような経験ができたことが、私にとって財産であり、一生に一度きりの10代にしか流せない汗を流せたことは、改めて振り返ると幸せなことだったなと思った。

この経験を活かして、どんなことも前向きに捉えて挑戦していこうと思う。

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