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過去の総決算としての絶望

金曜はうまく休めず、日曜は土曜の疲労もあってかひどく具合が悪かった.

自分のところには愛がなかったと、日に日に自分の体調によって知らされ、そんな私が今何をやっているのだろう、と感情的には思った。

そちらは感情。

身体的には頭が優勢になり、身体がうまく働かなくなってしまった。おそらく一週間の疲れがここにきて出たのだと思う。

思い返せば土曜の授業の時点で少し限界だった。

今朝月曜の通学も、自信は喪失していた。こんな機能不全の私が、何をしているのだという虚無感と孤独感だけが私を支配した。

しかしながら思い出した、私が過去に書いた記事たちは、そんな中でも精神の深化をした心の状況を現したものだったし、才能というものも私は磨いてきたのだと。

才能がなければ自分に価値がない、無論この精神で私は働いてきたわけだが、今主体を取り戻しつつある自分は、つまり自分らしさを取り戻しつつある自分は、その才能を自由自在に使える立場にあるのではないか。

例えそれが自身の無価値観からくる強迫的な頑張り、だったとしても、そこで蒔いた種は努力であったし、努力は努力であったのではないかと。

そう考えてみれば、私は身体機能や運動に関しても人並み以上に動けるし、勉学に関しても脳を究極まで追い込んだ記憶力がある。さらには読書によって培った本質的な思考力、あるいは本質を見抜く力もつけているから、たくさん勉強をしているのにまったく自分の研究を一言で表せない学生とは一線を画するものがある。精神的な求道ーつまりうつでもがき苦しむ経験の中で、語彙力も獲得した。思想や本質、読書に語彙、こういうものだって自分で培った力だ。

おまけに現在の流行り、私は世の中の流行りにはあまり興味はないのだが、あまりにそれについていけないと自分に価値がないと思わされるところから、ゲームなど数種のスキルを磨いてきた。

大学に行けば哲学はおそらく私が1番理解しているであろうし、日本史と日本文化もおそらく私が1番概略を理解していると思う。

人文に関しては私の思想そのものが認められる教科であるので、早くも教授から目をつけられている。

ゼミーいわゆるホームルームは多少の宿題が出るが、宿題にはもう私は慣れているだろう。


街を歩いていると、歩行者イップスになる時がよくある。ぶつかりたくないのに、人とぶつかってしまう。最近、そのわけが分かってきた。

自分の心に未消化の問題があるとき、この歩行者イップスは起きる。

イップスとは野球で球を投げれなくなる障害のことで、それを歩行者と組み合わせて造った言葉だ。

歩行者イップスは街の歩き方が分からなくなる、症状・病気である。

そしてそれは自分の心に未消化の問題があるとき、起きやすい。そういう時は歩く歩行者たち(街の人々)がさも全体が私を糾弾する敵、に見えてくる。

これを私は"マス"と名づけたが、英語のmassは大衆を意味するっけか、つまりは歩行者たち全体が一つの敵のようにマスに見える、という症状のことを言う。

歩行者イップスが起きている時、街の人間はマスとなり、

街の人間がマスとなったとき、歩行者イップスは起きている。

これらが暗喩するものは、人間と人間の関係性の中に、自分がどのように入り込むことができるか分からないでいる、ことの現れなのかもしれない。

大衆と群衆の交差の中に、自分が歩いていていいのだと思えない。

私はこの社会の一員となっていいという実感がない。

そもそも私に"主権"がない。

ここから歩行者イップスは発現し、大衆は必然的なマス、強大な一つの敵のように見える、のだろうと推察する。

しかし前述した通り、私は実力と才能を磨いてきた人間である。

無論、それしかやってこなかったのだから、あまり世間的なシステムとか、システムの使い方(例えばパソコンの使い方やメルカリの出品の仕方)なんかは全く知らないが、

それらは覚えればできる話だ。それらは変動しやすい、比較的誰でもできることだ。

私と君が注力しているのはそこではない。

私たちが注力しているのは精神の母体、つまりは変わりにくい部分の開発である。それが才能と実力である。

先述した通りそれは思想・本質的理解・読書・語彙などの文化的遺産もそうであるし、運動・つまりは武道や身体の使い方・スポーツなどもある。

でもやはり文化的遺産の方が変わりにくいものである気はする。

私たちはここを磨いてきた。だからポテンシャルを見てくれるポテンシャルモデル的なものがあるのなら(私はそれがあることを知っている)私たちはマスの中を堂々と歩ける一員である。

むしろ逆に、そのマスを歩く必要もなくなってしまうかもしれない。それくらいの可能性がある、そういうことだ精神の母体を磨くとは。才能と実力を磨くとは。

あ、忘れていた。この文章を書くということも、立派な才能の一つだ。それとそれがリサーチして既存のコピーを作る作業ではない、自分の意見を述べるブログであることも。

とにかくこれらを通して言いたいことは、自分は機能不全に生まれたから、愛を受けなかったから、自分にやれることはない、と思ってしまう病状に対して、もし仮にあなたが本当にそこに反抗をして才能を磨いてきたのだとするならば、それらを思い起こしもう一度生きる希望を取り戻そうとする手紙、である。

私は何度も何度もノイローゼを経験する。でもその度その度に生きる力を取り戻す。

ただ私の個人的なメモだが、個人的であることはずっと変わることがないが、それでも何がしかの示唆を与えるものがあるのなら、それは望外の幸せである。

望外の幸せ、言ってみたかった言葉である。

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