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私は自由を求めていた

やはりこんこんと悩み続けていくとどうしても何かに救いを求めたくなるような心境になってきます。少しおかしな話ですが、私には大学の課題があって、それがあまりやりたくなかった。それがあまりやりたくないのに比例して、私はブログを書いたり他の物事(太鼓の達人とかラップとか)の努力をしていました。とてもおかしな話ですが、やりたくない義務を課せられていた中で、その反動として努力をしていたのです。

一つ気づいたことがありまして、私は何度も言っていることですが過去、機能不全がありました。それゆえに今の私では価値がない、と思わされ、何とかそんな自分を変えようと努力してきました。その影響で比較的軽度に鬱を治癒した冬からも、まだ過労信仰なるものは残っていて、完璧な自分を目指した後遺症とでもいいますか、そのエネルギーで記事を書いていました。でもそれを止める術はその時の私には分かりませんでした。そして思うに、私は「ああ、ただ自由になりたかったんだ」ということに気がつきました。考えてみると22年間、親の理想論のもとで潰されて生きてきた挙句、大学の偏差値ですべてが決まるような入試を通り、現に社会適合を目指す大学に入るのですから、すべてそこでのメッセージは一つで、「もうこのような"世間"と関わりたくない。私は自由になりたい。」ということだったのだな、と思いました。

というのも夏休みの期間に入ったからです。考えてみればはじめて、何もしなくていい期間が私に訪れた。今までも高校で夏休みがあったではないか、と言われそうですが、その時は現に生きづらさを抱えていた。今は生きづらさを解消したので、つまりはじめて自分が生きているという夏休みを過ごすことができるのです。私はただそのことを思うだけでも心がワクワクします。大学の単位はあまり取れなかったけど、この自らが生きる夏休みに入れたことが限りなく嬉しいのです。

生きづらさを抱える人たちは、決してその人たちを責めればいい問題ではなく、その人の周りにあった世界が、社会が、一つの理不尽を抱えていた、ということだと思います。昨日も触れましたが、「あなたには何の罪もなかったのよ」ということが本当のことなのだと思います。機能不全で育った人がのちに機能不全を生んでしまうということがありますが、私はそれをはじめて聞いた時「なんてこの世は理不尽なんだろう。今まで被害者だった人が加害者に変わるなんて、そんな報われないことがあるか」と絶望したのを覚えています。しかしもっと正しく言うと、被害者が加害者に変わる、どこかで別人になるというよりは、"被害者のまま加害者である"という言い方の方が正しいです。つまり毒親の問題はその毒親自身も機能不全の被害者でありながら、愛を知らぬまま子どもを持ってしまったために、被害者のまま加害者になる、この構図なのだと思います。

私はこれらの病理が伝えてるメッセージはただ一つ、機能不全の破壊性、その酷さだと思います。また愛がないということがどれだけ人の精神衛生を破壊しうるか、ということの一つの証明なのだと思います。おそらくこのような機能不全の現れとして世の中で悲惨な事件が起き、それらの事件は「あなたたちは今の生き方で本当にいいのですか?」と厳しく問いかけられているのだと思います。人が殺された、人を殺した、それは人命の尊厳が非常に希薄になっていることの証左です。私は小学生の頃恋仲になった女の子を自殺で亡くしました。中学を卒業してから縁はなかったのでそんなことは知りませんでしたが、昨年の夏にその女の子が自殺した、ということを聞きました。私はその当時現に自殺するほどのうつの過程にいたので、その女の子の死が非常に生々しく、何か深い鉛を私の心に落とすような感覚がありました。

その女の子のsnsがあって、それをたまたま見つけ、私は何かに取り憑かれたように彼女の思考を見ようとしました。しかしそこには何かに思い詰めてるという節がなく、実際は何かに思い詰めていたかもしれませんが、ただそこには消えるかぁ的なことを書かれsnsの更新が止まっていました。私も一度自殺未遂をしたことがあるのですが、私の場合は非常に思い詰めていました。明らかに精神状態が狂っていた。しかし彼女の場合はどちらかというとお腹が空いたらご飯を食べるように、眠たくなったらベッドに入るように、そして死にたくなったから死ぬように、という感じで亡くなっていたのです。

どうやらそれほどまでに私たちという人間存在はフッと消えてしまうくらいの小さく、ささやかなものになってきているということを感じました。つまり思い詰めてる、人がいるとしたならばそれはそれだけの生きるエネルギーがある、ということなのだと、私は思いました。彼女も何かに思い詰めていたかもしれませんが、特段何か切羽詰まった様子もなく、そのままスッと消えていなくなってしまったということに、何か彼女が消えていく時にも別にそれを誰かに見せよう、生きた証を残そう、ともせずに1人で亡くなってしまったことは、この世界が非常に透き通るような世界になってしまっていることを考えさせられました。

私が精神障害を理解する上で参考にした著書にエリクソンという心理学者の発達課題、というものが書かれています。その中に世代性(せだいせい)という言葉が出てくるのですが、これは一言で言うと前の時代の素晴らしい文化を受け継いで、自分の世代でそれに改良を加え、そして後世に渡り継がせる、ということです。世代性とは価値の後継、ということですね。そして私は長年この世代性の意味を掴みかねていました。というのもエリクソンの発達課題では世代性は壮年期(40歳から55歳くらいまで)の課題である、と述べられているのですよね。私はそんな先のことは自分という人間には原理的に無理なのだろうな、と思っていたのです。しかしその後いろいろ経験してみるに、私は世代性とはその時代を生き抜いた人ならば、つまり自分の心でその時代の問題点や倒錯を見つめ抜いた人ならば、そこから汲み上げた言葉というものはその時代を鮮明に映し出したものであり、そしてそれは必然的に後世に語り継がれるに値する言葉であるのではないか、と思ったのです。つまりはこの現代を苦しみ生き抜いた人は、その苦しみ生き抜いたという時点で一つの世代性を獲得しているのではないか、そう思っているのです。また逆に言えば、世代性にならない人たちは苦しみ抜いていない、苦しみの中途にある人たちなのではないか、と思いました。アウフヘーベンという言葉がありますが、それは極と極を移動するからこそ人間としての成熟が成される、という意味合いだと聞きました。そしてその極に行っていない人、私はこれを非世代性とか永遠の狭間(えいえんのはざま)と言っていますが、その人たちだけが世代性に該当しないのではないか、と思うのです。つまりもっと突き詰めるならば、世に言う"努力"というものの果報は、もしそれが相対的に数値化が可能であるとするならば(絶対不可能でしょうが)、それは世代性になるまでにこの世の中を生き抜いたか、ということなのではないか、ということが帰結する気がするのです。そしてではその非世代性はどこから来るのか、ということを考えますが、それは「自分と向き合っていない」というところから来ていると思われます。

私が学んだ仏教では、「自己に目を向けよ」と言われます。また私の尊敬するソクラテスは、「汝、自身を知れ」と言ったと聞きますが、この自分を見つめる作業こそが非世代性からの脱却の鍵になると思うのです。非世代性、精神がアウフヘーベンしない人間に、自己理解をしている人間はいません。自己理解の確信度が高まれば高まるほど、世代性の質が上がります。このように自己理解と世代性は比例関係にあると、観察上確認できるのです。また別の言葉で言えば、自己理解をした人間は物事を「なぜそうであるか」というとこまで考える傾向にある気がします。しかし非世代性の人間は「物事はこうである」という、好奇心ではなく経験的な、ようはコンピュータと変わらない知的好奇心に基づかない非常に希薄的な表面上の世界の理解に留まります。このようなことが認められるのです。

かといって私は非世代性を謳い文句にして人の不安を煽りたいわけではありません。現に非世代性の人間は自分を幸福だと思っています。私はそれは本当の幸福ではないと思っているのですが、何しろ本人たちが自分は幸福だと言って疑わないのです。故に非世代性の人たちに非世代性の破壊性は伝わりません。この言葉が伝わるのは世代性のある人間と、そしておそらく少し非世代性から脱却しかけている、人間に限定されるのだと思います。これほどまでに世代性の人間と非世代性の人間の間にはディスコミュニケーションがあるのです。

しかし色々と考えてみるに、非世代性の人間の最も残酷な結末は、「その死を満足して終えられない」この一点にある気がします。つまりいくら幸福だと本人が言ってても、おそらく必ず後悔が起きます。なぜかというと非世代性の人間は他者に自己実現を転嫁する傾向にあるので、実は自分で自分の人生を一つも形作ってこなかった、ということがあるからです。つまりまとめると、非世代性の人間は知的好奇心が萎えており、物事の表面上の理解に留まり、他者に自己実現を転嫁し、そして最後に死の前で後悔する、ということなのだと思います。これを何とか気づかせようと、ソクラテスは「汝自身を知れ」仏教は「自己を知れ」と言っているのだと思います。

そしてまた毒親、と言われる人たちに世代性と言える人間はいないと思います。前の素晴らしい文化を受け継ぎ、改良を加え、後世に受け継ぐ、これができないから毒なわけです。つまり毒親の毒とは世代間との隔絶です。世代間での孤独です。先述したところに愛がないことの破壊性、と言いましたが、この愛がない破壊性がおそらく非世代性なのです。私はこのようなことを思うのです。

つまりは根源的に言うならば、愛が世代性を生みます。人の尊重が世代性を生みます。尊重、愛、相互理解、自己理解、他者理解、肯定、知的好奇心。これらはどれも繋がっているということですね。

私は機能不全の生まれでした。その中でこれらのことを、この仕組みをずっと探していた。ずっとずっと、これが知りたくてもがいていたのです。最後に少しかっこつけが甚だしいですが、過去の詩を載せて終わりにしたいと思います。

ここまで見てくださって、ありがとうございました。

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