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【エッセイ】意思疎通

雪が降ったかと思えば、桜が満開に咲き誇りそうなぐらいのポカポカ陽気。
壁掛けのカレンダーとスマホを確認するも今はたしかに2月。
ドラマにあるような時空のねじれ現象に巻き込まれたわけではない。
 
すっかり懐いてくれたと思い込んでいた近所の野良猫が素通りしていくように、そのぐらい激しい変化の寒暖差に体が追いつかない今日この頃。

私は仕事を終えて職場近くの酒場へ逃げ込んだ。
 立ち飲みなので、深酒せずに帰宅できる点がこの店の良いところだ。
 
「オススメナンデスカ?」
 
どうやら隣に居る20代風の若者は初来店のようだ。
 
「オススメナンデスカ?」
 
19時を過ぎた店内はてんやわんや。
店員さんには若者の声が届いていないのだろう。
 
「オススメナンデスカ?」
 
瓶ビールをグラスに注ぎふっと横に視線を向けると、若者の体は私の方を向いている。そして私の顔先にメニュー表を差し出してくるではないか。
 
すでに注文を終えて店員さんと世間話を始めていた私を見て、私を常連と認識した可能性は否定できない。
この線と見て間違いないだろう。
 
「オススメナンデスカ?」
 
最初の一杯目はやはりビールが良いのではないかと、世間一般な酒場の模範解答を伝える私。
若者は2~3分考えた末・・・

ウーロンハイを注文した。
 
「オススメナンデスカ?」
 
最初のつまみはやはり枝豆が良いのではないかと、世間一般な酒場の模範解答を伝える私。
若者は2~3分考えた末・・・

梅水晶と肉豆腐を注文した。
 
「海外の方ですか?」
 
話を聞くと、その若者は大学生で少し早い春休みを利用して日本中を旅しているとのことだった。
スマホに搭載されている翻訳アプリを一生懸命に駆使しながら、私が話している内容にうなずいていた。
 
「オススメナンデスカ?」
 
どうやら次に立ち寄る店を探しているらしく、近隣に良い店がないかを私に聞いてきた。
 
3度目の正直。ここは模範解答に頼る訳にはいかない。
 
私は店員さんも巻き込み、裏路地に入らないと発見できない穴場店を紹介した。
恐らくガイドブックにも掲載されていない、地元民に長年愛されている、老夫婦が営むこじんまりとした割烹料理店。

若者は2~3分考えた末、結論を下したようで、私にスマホ画面を提示した。
 
「ココイイネ。イッショニイクデスカ?」
 
若者のスマホに目をやると、大手激安チェーン店が地図上に赤々とマークされていた。
 
「これからゴーホームなので、ソーリー。グッドラック!」
 
伝票を残したまま、希望に胸を膨らませて若者は店の出口へと消えていった。
 
お会計をオススメされるとは夢にも思わず、私はグラスに残ったビールを一気に流し込んだ。

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