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【連載小説】『陽炎の彫刻』9

 僕は、滋賀に向かう電車の中にいる。
 京都駅の新幹線ホームから、在来線の大津の方に向かう電車に乗って、出発を待っていた。電車の遅延に見舞われていた。平日の昼間なので、そんなに乗客は多くない。秋も終盤になって、日差しも枯れていくようだった。電車の中の人工的な温かさに身を浸していると、出発を待つ電車の開けっ放しのドアから入ってくる少し冷たい外気も心地良く感じた。
 僕は梶川君の故郷に向かっていた。梶川君がいなくなって、5か月が経とうとしている。あれから、梶川君が見つかったという報告も、もちろん彼本人からの連絡もない。彼がいなくなってからも、相変わらず僕はあの満ち足りた退屈の中にいた。それでも、彼がいなくなったという変化は、僕にとって大きな出来事ではあった。
 9月頃、僕は梶川君の部屋を片付けた。長らく彼が帰ってこないのであれば部屋を空けてほしいという、大家からの申し出があったのだ。警察であの夜の説明を受けた時、初めて彼の両親と対面した。僕が見た感じ、両親はわざわざ滋賀から上京して引っ越しをできそうな体力が有り余っているほど若くはなかった。両親は、彼が行方不明になったことや彼が(というより彼の身体が)引き起こしたショッキングな出来事に対して動揺している様子は不思議となかった。むしろ、どこかでこんなことが起こることを悟っていたような表情が印象に残っている。僕は彼の実家と連絡をとり、荷物の引き上げを僕が引き受ける旨を伝えたところ、ぜひともお願いしたいとの返答があったのだ。
 1週間程、仕事も有給をとった。佐々木さんが上司に根回しをしてくれたので、有給をもらうのに特に苦労しなかったのは幸いだった。
 大家からスペアキーを受け取り、彼の部屋の荷物をまとめはじめた。本棚の書物やCDを段ボールに詰めたり、パソコンなどの機材は元あった箱に戻したりした。キッチンの調味料などは根こそぎ捨ててしまった。しばらく開けられていない冷蔵庫の整理は、かなり勇気がいった。中には腐った食材がそのままだったからだ。
 荷物のまとめている途中で、彼の通っていた大学にも赴いた。研究室にある文献や資料も整理しなければいけなかったのだ。彼の両親は、9月になっても彼の消息が分からないことを受けて、彼を大学院から退学させることに決めた。彼の所属していた研究室に行き、彼が研究で用いていた資料や文献を回収した。文献にはたくさん付箋が貼られていたり線が引かれたりしていた。しかし、それらが何を意味するのか、僕には分からなかった。
 電車のドアが閉まった。ついに電車が出発した。電車の中からは、秋の終わりと冬のはじめが入り混じる京都の街並みが流れていく。空は雲が分厚い。
 梶川君はどこにいってしまったのだろう。車窓に頭をもたれさせながら、僕は考えていた。彼が生きていると考えるべきなのだろうか。生きていてほしいと思うのは、馬鹿げているだろうか。彼が、あるいは、もしもう死んでしまっているのであれば彼の遺体が発見されない以上、僕たちは彼の行方不明をどう受け止めたらいいのだろうか。
 あの夜、梶川君の身体から噴き出したあの大量の汚物。梶川君を消し去ったあの汚物。証言を聞く限り、あの中には梶川君が今まで食べたものも含まれているのだろう。中に入ったものは、それがいかなる手段、経緯、事情であれ、いずれそこを出ていかなくてはならないのだ。それは梶川君にとっても、同じことだったようだ。ただ、その仕組みが、僕たちと梶川君とでは大きく違っていただけなのだ。
 でも、と僕は考える。でも、たったそれだけの違いで、梶川君の行く末がこんな風でなければいけなかったのだろうか。
 電車は山科付近の古びたトンネルに入って行った。暗くなった車窓に、僕の顔が映し出された。
 引っ越し業者が来る日程までに、何とか荷物をまとめるのは終えることができた。荷物の送り先は、ひとまずすべて梶川君の実家にするようにと言われたので、その通りにした。業者の人間が2人来て、荷物を運び出していった。僕は彼らが荷物を運ぶのを指揮したり手伝ったりした。流石に業者の人間は仕事が早い。あっという間に、段ボール一つが残されるだけとなった。中身は、梶川君の愛用していた、あのオーディオコンポだった。
 彼らが下に他の荷物を運び出していて、部屋には僕とオーディオの入った段ボールを残して誰も、何もなかった。僕は、残された最後の箱を眺めながら、彼のことを考えていた。何度考えても、堂々巡りが続くだけだった。
引っ越し業者の一人が部屋に帰ってきた。彼は残された一つの段ボールを見た。
「これで最後ですね。持っていきますね。」
 彼はそう言って、段ボールを抱えて玄関に向かって行った。
 電車はトンネルを抜けた。暗い車窓に際立っていた僕の顔が、すっと消えた。一瞬、明るさに目が追いつかなかった。トンネルを抜けるとすぐに次の駅に到着した。雲の切れ間から晴れ間が覗いていた。
「すみません。ちょっといいですか?」
 僕は、業者の人間を呼び止めた。呼び止められた彼は、こちらを見ながら僕の次の言葉を待つような表情をした。
「はい。」
「あの、その段ボールだけ、残していってもらえませんか?」
 業者は、怪訝そうな表情をしながら、でもそれを了解した。
 僕はその時、自分の年齢にしては恥ずかしいくらいのイノセントな動機から、賭けに出ることを思いついたのだ。
 業者は、オーディオだけを残して、他の荷物を運び去って行った。これで、荷物の整理は終わり、部屋を空けることができたわけだ。
 僕は最後に、玄関から一番近い、かつてトイレがあったあのドアを開けてみた。あの時と寸分違わず、そこにはコンクリートの壁があった。触ってみると、相変わらずひんやりとして呼応を感じることはない。幸いにも、引っ越し業者にこれを見せることなく荷物の引き上げを終えることができた。このトイレは、どうするのだろうか。どこかの業者に頼んで、コンクリートを砕くのだろうか。
 いつだったか、どこからだったか忘れたが、こんな話を聞いたことがある。石や木材で彫刻を作る人は、まだ作品になる前の石や木材の中に作品が埋まっていると考えるのだそうだ。石や木の形を削ることで変形させるのではなく、埋まっている対象物を掘り起こすと考えるのだ。なので、彼らのやることは、ものの形を変えることではなく、作品に付いた土を払うような感覚に似ているというらしい。
 このコンクリートの壁を砕く様は、まるで彫刻の制作現場のようになるのだろうか。もっとも、ここを彫って現れるものは、ただのトイレ以外の何物でもないのだが。僕は、一つの彫刻のように、一つのトイレがそこに現れるのを想像した。
 電車は大津に到着しようとしていた。梶川君の部屋を整理している時に、彼の部屋のデスクに日記帳を見つけたのを思い出した。そこには、僕の知らなかった彼の生活が綴られていた。僕とのことも多く書いてあった。仕事のこと、大学院のこと、愚痴や、恋愛のことまで書いてあった。それが、果たして彼の秘密なのかどうかは分からない。また会った時に尋ねたら「ただ見せなかっただけだよ。」と答える梶川君も想像できる。その内容も興味をそそるものであるが、それらを書き記すには、もう十分な紙幅がない。割愛することにしよう。
 電車は大津に到着した。僕は電車を降りた。ここが梶川君の故郷だ。ホームに立って、ジャケットの胸ポケットに手を入れ、そこに忍ばせた封筒の存在を確かめた。
 去っていく電車の音、乗降客のざわめきが、塵のように僕の肩に積もるようだった。


―続―


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