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【連載小説】『陽炎の彫刻』8‐1

 梶川君が事故に遭ったと、佐々木さんから連絡があった。
 僕は仕事を終えて、佐々木さんから聞いた、梶川君が搬送されたという病院に向かった。6月の梅雨時で、気温こそまだ暑くはないが、空気がジメジメしていて汗ばむ季節になっていた。僕は、職場からタクシーで直接病院に向かった。タクシーの中で携帯電話を確認すると、佐々木さんから「後から俺も行くから。彼の滋賀の実家には、俺から連絡をしておくから。」と連絡があった。
 病院に着くと、数台のパトカーや消防車が赤色灯を瞬かせているのが見えた。何が起きているのかは分からないが、ひとまず中に入ろうとした。しかし、病院の入り口から30メートル程離れたところに規制線が貼られていて、歩道からも車道からもそれ以上病院には近づくことができないようになっていた。規制線に沿って、歩道の方には野次馬や、病院に入院している患者と見られる身なりをした人が集まっていた。
 集まる人をかき分け、僕が病院の入り口の方に進んでいくと、規制線のそばに立っていた警察官が僕に近寄ってきた。
「何があったんですか。」
「火事ですよ。ここから先は近寄らないようにお願いします。」
 そう言って、僕を遠くにやんわり押し戻そうとした。
 しかし、火事にしては違和感のある状況だった。第一に、何かが燃える臭いが全くしない。総合病院で敷地も大きいが、ものが燃える臭いがここまで漂ってこないというのは変な感じがした。そして、タクシーが病院に近づいていく時、遠目から見ても煙が全く立ち上がっていないのが分かった。病院の中から避難してくる人もいるが、火事という緊急事態にしては避難の足取りが緩慢すぎるような気がした。
「あの、本当に火事なんですか?」
 僕は改めてさっきの警察官に聞いてみた。彼の肩越しに、慌ただしく出入りする警察官や防護服(ガスマスクまで着けている)を着た消防士が見える。
「本当ですよ。とりあえず離れて。」
 警察官は、さっきより少し力を込めて僕を押し返そうとした。彼は、僕をこの場から立ち去らせることができれば、本当のことを言おうが、言うまいがどうでもいいというようだった。本当のことを説明するよりも、この場から僕を立ち去らせる理由を探すことを優先している様子だった。
「火事にしては明らかに状況が変だろう。」
 僕は食い下がった。警察官は、今度は眉間に皺を寄せた。
「この病院に梶川雄太が搬送されたろう?僕は彼の関係者だ。」
 僕の平静を失いつつあった。口調も少し荒くなっていた。しかし、警官は梶川君の名前を聞いて、表情を一変させた。野次馬に対する鬱陶しさが消えて、新たにやるべき対応を探る表情になった。
「梶川さんの関係者ですか?」
「ええ。梶川の友人です。」
「ちょっと待ってくださいね。」
 警察官の彼は、入口の方に駆けていった。
 しばらくして、さっきの警察官がスーツを着た男を一人連れてきた。スーツの左腕に幅のある腕章をつけていた。さっき警察官の彼が僕を見つけると、スーツの男に僕を指し示した。スーツの男が僕に近づいてくる。
「あなたが、梶川さんの関係者ですか。」
「はい。松谷と言います。」
 スーツの男は、僕が彼の関係者と認めると、僕の肩を軽く押し、野次馬の外に僕を導いた。野次馬の外に出ると、スーツの男は僕に囁き始めた。
「梶川さんは、確かにこの病院に搬送されました。しかし、そうですね。」
 男は、言葉を探しているような様子だった。
「今言えることは、この騒動の中心には、梶川さんがいるということしか言えません。我々も、現状をあなたに説明したいんです。ですが、少し説明しづらい状況というか…。どう言葉にしていいか分からないような状況になっているんです。」
「どういうことですか?」
 言葉で説明がしづらい状況を、言葉で説明するように求めるのは無理があるだろう。しかし、それに気づくまでに時間がかかる程、僕は動揺していたし、冷静でなくなっていた。
「言葉で説明するより、見ていただいた方が早いかもしれません。ですが、危険なので病院内に入れることは、我々としてもできません。」
 スーツの男は汗を拭って答えた。6月の雨上がりの夜にしては多い汗を見て、彼もまた平静を装うことができずにいることを僕は察した。彼は、自分の目撃した状況を説明するための言葉を探す必死さと、僕に答えを急かされていることへの焦燥感が滲む表情を顔に浮かべていた。
「警察の方で、医師や消防などに事情を聴いた後、事態を整理する必要があります。関係者の方々には、また後日、今日のことをお話させてください。」
 スーツの男は、僕の目を申し訳なさそうに見つめながら、そう言った。彼の目線は、その場しのぎの口上にも、ごまかしにも聞こえなかった。僕は彼を信じることにした。というより、そうするしかなかった。
 スーツの男が、僕の名前と連絡先を聞いてきた。後日、関係者への説明に呼ぶために、教えてほしいと言うのだ。僕は、彼に携帯番号と名前、住所などを教えた。それらを聞いて手帳に書き込むと、スーツの男は僕に「申し訳ありません。」と言い残して、病院の方へ去って行った。
 僕は、ひとまず佐々木さんの到着を待った。佐々木さんが到着したら、あの男から言われた説明を佐々木さんに伝えなければならない。
 また、雨が降ってきた。

―続―

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