【連載小説】『陽炎の彫刻』1‐2

 彼は、僕を玄関に向かって右側の、それでいて玄関から一番近いドアの前に導いた。彼はドアの前に僕を立たせ一言「開けてみて。」と言った。僕は、そのドアを開けた。
 するとそこには、コンクリートの壁が現れた。コンクリートは、ドアの枠ギリギリまで迫っていて、ドアを開けても一歩も踏み出せないようになっていた。通常、ドアというものは、ある空間Aと空間Bを隔てたり、繋げたりする機能を持っているものだ。しかし、今僕の目の前にあるものは、言うなれば本来ドアによって隔てられたり繋げられたりするはずの二つの空間の内の一つが、コンクリートで埋められている状態だった。それはもはやドアとしての役割を放棄し、壁に貼り付けられたドア状のオブジェ以上の機能を果たしていなかった。
「これは、どういうことなんだい?」
「ここに元々トイレがあったんだ。」
 ここで一つ解決された疑問があるとすれば、彼が僕にトイレを貸せなかった理由だ。しかし、解決された疑問よりも多くの新しい疑問が追加された。
「梶川君。これは君がやったのかい?どうしてこんなことを?」
 この時の僕の困惑に共感することは、そう難しいことではないはずだ。梶川君だってトイレがこのような状況では困るはずだ。
「僕には必要がないから。」
 僕はさらに事情を聴くことにした。
「僕は生まれつき排泄をしないんだ。しない、と言うと意志をもってそうしているように聞こえるかもしれないけど、そうじゃない。僕は生まれてから排泄をしたことがないんだ。」
 つまり、一向に僕の疑念が解決されなかったのは、僕の想像力の欠如が原因というわけではなく、彼の事情が人智を(少なくとも僕の思考を)越えていたからだということになる。
「僕は体質的にそういうものらしい。親に聞いたことがあるけど、小さい頃からそうだったみたいだ」
「両親は医者に相談するなり何なりしなかったのかい?」
「それもしたみたい。いろいろと調べてもくれたみたいだけど、原因が特定できなかったらしい。医者は研究のために僕の身体をいろいろ調べたがったみたいだけど、途中で両親が実験台のように扱われることに嫌気が差したらしくて、医者の研究を断ったらしいんだ。」
 自分の子どもが、研究のためとは言え、サンプルとして実験台のように扱われることは、確かに親としては耐え難いものかもしれない。しかし、不思議だ。体内に入れたものを外に出すというのは、生物が生きていくためには必須のように思われる。しかし、彼の身体にはその機能がないというのか。
 しかし、彼の話が嘘に思えないのにはそれなりの理由があった。彼と出会って3年、彼が便器の前に立っているところを見たことがないのだ。彼が会社のトイレにいることは見たことがあるが、その時はいつも洗面台で手や顔を洗ったり、身だしなみを整えたりしていた。3年も付き合いがあれば、(特に男性の場合は)親しい友人が用を足す場面を一度くらい目撃するものだが、彼のそういうところを見たことがない。このことが、彼の話に説得力を与えていた。
「なるほど、疑問はまだたくさんあるけど、今のところは、これ以上何も聞かないことにするよ。」
 これ以上、僕が聞いても理解できそうなこと、そして彼との関係を続けていくにあたって僕が理解しなければいけないことは(今のところ)なさそうだった。別に、今すべてを知らなければいけないわけではないだろうし、それは今に限らず、ずっとそうなのかもしれない。
「けど、いくつか言わせてくれないかな。」
「何かな?」
「まず、必要がないものを必ずしも消さなければいけないわけじゃないんじゃないかな?」
「どうして?」
 僕はもう一度、ドア枠の内のコンクリートのグレーを見た。
「例えばそうだな…。僕の家に『椿姫』という小説がある。祖父の形見だ。読書が好きだったからね。その小説を僕は読んだことはないし、なくても僕が生活に困ることはない。ある意味で不必要だと言える。けど、だからといってそれを捨てる必要もないだろう?まあこの場合、祖父の形見ということもあるけど。」
「なんとなく言いたいことは分かる気がするよ。」
「必要のないものと消さなければいけないものは、必ずしもイコールとは限らないと僕は思うんだ。」
 僕は手のひらをコンクリートにあててみた。呼応を拒絶するようなコンクリートの冷たさを感じた。このグレーの塊、というか壁の奥に、トイレが埋まっているのだ。
「それに、僕たちが使うような使い方をしないにしても、君にとってもトイレは意味のある場所かもしれないじゃないか。」
「例えば?」
「例えば、こういう話があるだろ。いいアイデアはトイレでよく思い浮かぶって。」
「そうなのかい?」
 梶川君は驚いたような声で言ったが、この話題に興味があるかはその表情からうかがえなかった。
「トイレは人間が一番油断する場所だから、脳がリラックスして物事を大局的に見られるということじゃないかな。会議室よりも画期的なアイデアが浮かびやすい場所だと言われているよ。」
「でも、トイレで油断するのは、君たちがそこで排泄をするからなんじゃないかい?少なくとも僕にとってトイレは油断する場所じゃないかな。」
 言われてみれば、彼の言うことは一理あるかもしれないと思った。僕がトイレでする油断を、彼がするとは限らない。なぜなら梶川君は排泄をしないのだから。だとしたら、梶川君は一体どこで油断できるのだろう。
「それから」
 僕は次の話題に移ることにした。そもそも、僕たちはトイレで思いつくような画期的なアイデアを必要とする生活を送っていないことに気づいたからだ。
「やっぱり、こういうことはやめた方がいいんじゃないかな。ここは賃貸だろ。君だって、いずれどういう形であれ、ここを出ていかなくちゃならないんだから。」
 梶川君は僕をまっすぐ見た。
「それに関しては、まったく君が正しいと思うよ。」
 僕は、ドアを閉めた。これは切り上げのサインのつもりだった。他にも聞きたいことは山のようにあるが、これ以上何かを聞き出しても、僕の手に負えるものではないと思った。おそらく彼の方でも、僕に何かを負ってほしいとは思っていないだろう。
 僕はこの日最後の質問をした。現段階で重要な疑問なんて、そうたいしたことではない。
「君は、お腹は空くのかい?」
「ああ。ちゃんと人並みに腹は減るよ。」
「なら飯に行こう。どこでもいいんだ。何を食べようか。」

ー続ー

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