【連載小説】『陽炎の彫刻』1‐1

 コンビニのトイレで用を足さなければいけなくなったことに、僕は全くもって納得がいかなかった。梶川君の住むアパートを見る限り、トイレが他の部屋の住人と共用ではなさそうだったし(社会人の一人暮らしがわざわざそんなところに住む理由もないし、今の時代そんなアパートもそう多くはないだろう)、それ以外にも他の住人と共用するらしい場所は見当たらなかった。それに、玄関を入ってリビングまで行く直線の短い廊下の途中に、いくつかドアが見られた。それらのドアのうち一つくらいはトイレに通じるものがあってもいいものだ。
「ごめん、この部屋トイレないんだよね。」
 トイレを借りられないか聞いたときの彼の返答がそれだった。そんなことがあり得るわけがない、と詰め寄ろうとした時には既に、「下にコンビニがあるから、そこのやつ使って。」と彼は言い終えていた。
 一体どんな事情があって彼の部屋にトイレがないのかについては後で聞くことにして、ひとまず僕はコンビニのトイレで用を足すことにしたわけだ。
 トイレを出た僕は、ひとまずコンビニ内を歩き回ることにした。トイレを借りるだけで何も買わずに店を出ることが躊躇われたこともあるが、なぜ彼の部屋にトイレがないのか、というより使わせてくれないのかという怪訝さを解消する時間を確保したかったということもあった。
 僕がレジに商品を置いた時までに思いついた理由は次のようなものだった。例えば、トイレに彼が秘密にしているもの(例えば、他人に見られるのは可能な限り避けたいようなポルノ雑誌や、もしくは言うのも憚られるようなもっと物騒なもの)が隠されているかもしれない。例えば、アパートの設計上の理由で彼の部屋にだけトイレを組み込むことができなかったのかもしれない。もしくは、僕がトイレを汚すような使い方をするのではないかと、彼が僕を疑った可能性も考えた。しかし、どれも納得がいかない。
 まず、一つ目の仮説(彼が頑なに見せるのを拒む何物か)については、一人暮らしの男性が隠そうとするものと聞いて最初に思い浮かぶものは、ポルノ関連の商品の類だが、僕も彼と同性なわけだから、女性に見られる恥じらいならまだ共感できるものの、僕に隠す必要はないのではないだろうか。仮にそういった類のものではなく、もっと物騒な物が隠されている可能性も考えた。例えば、人や動物の死体とか。しかし、だとすれば部屋にはそれ相応の匂いなり気配なり、彼には自身のした行為に対するうしろめたさや罪悪感が滲む態度なりがあってもいいはずだ。
 二つ目の仮説(つまりアパートの設計上の理由によるもの)については、もしそうであるなら設計者は愚鈍極まりない。あの部屋にトイレが置けない事情があるとすれば、それは設計した段階で分かるはずである。仮に、設計をしてから(何かが誤ったまま参照された設計図をもって)あの部屋にトイレが置けないことが発覚したなら、それを補う共用施設の設計を考えるはずだが、あのアパートにはそうした類のものは見当たらなかった。仮に、この一連の疑念が解消されたとしても、彼がそのような部屋を生活の拠点として選んだ理由は疑問として残る。
 三つ目の仮説(つまり彼の僕のトイレの使用に関する信頼)については、この3つの中では一番ありそうな話ではある。しかし、それは前の二つと比べてそうであるというだけである。このとき彼との付き合いは3年目に入っていたわけだし、家のトイレを使わせるくらいの信頼関係を築き上げるのに、3年という月日は十分ではなかろうか。
 結局、これといって納得のいく理由は見つからないまま、僕はコンビニを出ることになった。夕方、夏の雨上がり、この町はあまりいい匂いがしない。
 考え事に終始していたため、何を買ったかおぼろげであった。コンビニの前の喫煙所で煙草を吸おうと思ったとき、つい10分程前までは、ついでに煙草も買おうとしていたことを思い出した。ここから見る限り、勤務中の店員はさっき僕の会計を担当した人を除いてはいないようだった。短い間に同じ店に何度も行くことは何となく気が咎めるので、さっさと煙草を吸って彼の部屋に帰ろうと決めた。
 エアコンの効いた梶川君の部屋に戻ると、彼は相変わらず二人掛けのソファを一人で陣取るように座って雑誌を読んでいた。帰ってきた僕に目を向けて、
「ごめんね、わざわざ」
と、奇妙な行動を僕にとらせたことを一応詫びた。
 僕は、コンビニで買ってきたものを彼と分け合うことにした(ここで僕は、自分が350mlのキャップ付きの缶コーヒー1本、ペットボトルの500mlの緑茶、袋に入ったクッキーを買っていたことを明確に認識した)。彼は緑茶を選んだ。部屋には、Simon & Garfunkelの曲が流れていたが、タイトルは忘れてしまった。
「雑誌に夢中のところ申し訳ないけど。」
 僕は早速だが彼に尋ねることにした。
「別に夢中というわけではないよ。」
 雑誌に夢中かどうかについての訂正が無意味であることは、梶川君も承知しているようだった。
「何か聞きたいことがあるみたいだね。どうしたんだい。」
 彼は僕が聞きたいことも何となく分かっているように見えたが、一応言葉にすることにした。
「君の部屋にトイレがないというのは、どういうことだい?僕にはこの部屋が、トイレが置けない程窮屈にも見えないし、さもしくも見えない。僕が下のコンビニにわざわざ用を足しに行かなければいけないのにはどういう理由があるんだい。」
「トイレがないというのは、文字通りの意味だよ。」
 と言ったものの、梶川君はこの回答で僕が納得しないことは分かっていたようだ。梶川君は、僕がコンビニで買ってきた緑茶を一口飲んで、立ち上がった。
「こっち来て。面白いもの見せてあげる。」

ー続ー

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