【連載小説】『陽炎の彫刻』8‐2
ここから先は、その後、梶川君が事故に遭ったあの日について、僕が警察から聞かされた話になる。
6月17日、夕方4時頃、梶川君は国立市の交差点で信号を見落とした乗用車と衝突した。彼の身体は数メートル吹き飛んで、地面に叩きつけられる格好になった。彼はその場で意識を失っていたが、周囲の人達の応急処置もあって、救急車が駆け付けた時、呼吸だけは辛うじてあった。
彼は、救急車で国立市内の病院に運ばれた。その時の梶川君は、意識こそ失ってはいたが、その後の処置によっては生存の可能性は十分にあったという。しかし、安心はできないくらいの重傷を負ってもいた。病院の医師たちは、梶川君の容態の報告を聞き、緊急手術を行うことを決めた。病院に運ばれた梶川君は、手術室に直行することになったのだ。
しかし、その病院の医師たちは、誰一人として彼の抱える例の身体的特性を知らなかったのだ。つまり、緊急手術を行うということは、彼の身体にそのミステリーを解明することなくメスを入れることを意味したのだ。
彼は手術室に搬送された。医師や手術に立ち会ったスタッフたちは、彼の衣服をハサミで裂いて、手術台に乗せた。執刀医が彼の腹をメスで裂いた。
不思議かつ信じがたいのはここからである。裂いた腹を開くと、そこには何一つ内臓が見られなかったというのだ。医師たちは困惑した。怪我をした傷口やメスを入れた箇所から出血は確認されたというのに。彼の腹の中を覗くと、そこは暗く黒い、どこまでも深い空洞のようになっていた。
医師たちが戸惑いを隠せないでいると、彼の腹の中から何かが溢れ出てきた。それは、粘り気のある乳白色の液体で、小さい固形物が混じっているのも確認された。その場に居合わせた病院スタッフの証言では、その固形物の中には、咀嚼された肉やエビのようなものも見られたという。
液体は生ぬるい不快な温度をまとっていて、耐えがたい悪臭を放っていたという。ひとまずこの液体を「汚物」と称しておいても差し支えないだろう。
その汚物は、やがて火柱のように梶川君の裂かれた腹から噴き出した。突然の出来事に、そして起こっていることの珍奇さに、医師やスタッフは数歩後ずさることしかできなかった。
汚物の噴出は止まることを知らず、手術室の床全体に広がり始めた。医師たちにとっても、かなり信じがたいことであろうが、吹き出した汚物は、成人男性の身体の体積に収まりきるとはとても思えない量だった。瞬く間に手術室の中は、豪雨に見舞われ浸水した街のようになり、医師やスタッフの腰のあたりまで汚物で満たされた。手術台の梶川君は、既に汚物の中に沈んでしまっていた。何人かのスタッフは、その汚物の中に、自分の吐瀉物を紛れ込ませたという。
一人の病院スタッフが、手術室の出入り口を開けに行った。スタッフが手術室の出入り口を開けると、汚物は手術室の前の廊下に半円形に広がった。そこで、汚物の噴出は終わったと見られる。
事態を目撃した病院側は、すぐに消防に通報を行った。しかし、消防の側でも通報内容が上手く把握できず、何の騒ぎで自分たちが呼ばれているのかを瞬時に理解することはできなかった。しかし、「とにかく、見た方が早いです。」といった切迫した声音に、ただならぬものを感じたのか、消防は取り敢えず駆け付けることにした。
病院では、手術室のあるフロアの防火扉を閉め、病院内のスタッフや医師、患者の中でも屋外に出ることが可能な者は避難させた。あの日僕が見た野次馬たちの中には、そういった人々も多くいたのだろう。手術に立ち会ったスタッフや医師は、手術台に残された梶川君を気にかけていたが、消防の指示に従って避難を優先することにした。
消防は、現場に念のため防護服とガスマスクで全身を固め、現場となった手術室へ向かった。汚物をかき分け、踏み分けながら、手術室に残された梶川君の捜索を行った。しかし、手術台にはおろか、手術室の床にも、梶川君の身体を発見することは出来なかった。
翌日の6月18日、消防と専門家が現場に入り、梶川君から噴き出した汚物の調査が行われた。調査の結果、その汚物は酔っ払いが街中にまき散らしていく吐瀉物と同じように処理しても構わないという結論が出た。その後、専門家指導の下、消防によって汚物の処理がなされたが、その最中に梶川君が見つかることはなかった。
以上が、僕を含め梶川君の関係者に対して、警察が行った説明だった。警察の事情説明を聞きに来ていたのは、梶川君の両親、大学院で彼の論文指導を担当する教員、そして佐々木さんと僕だった。梶川君のあの例の件を知らない大学教員と佐々木さんは、警察からの説明に(当然のことだが)到底納得がいかないという感じだった。
しかし、事情を知る僕は、警察の行った説明は信じがたいものではあるものの、梶川君ならあり得るかもしれないと思った。もちろん、これは科学的根拠に基づいた確信ではないが、部屋のトイレをコンクリートで埋めてしまう彼のことだ。排泄を必要としない身体を持つ彼のことだ。警察が説明したような事態が起こったとしても、不思議ではないかもしれないと思ってしまう。
警察は念のため、彼の遺体が発見できない以上、行方不明者として梶川君を捜索するという方向で話を進めていた。しかし、警察の方でも彼の生存の可能性は低いと見ていた。確かに、並みの人間なら、腹を裂かれた状態で長時間放置されれば、そう長く生き永らえることは不可能だろう。そう、並みの人間なら。
そこで僕は考えた。彼は果たして並みの人間なのだろうか。もしかしたら、彼は人間でさえなかった可能性も否定はできない。しかし、今はそんなことはどうでもいい。彼の生存の可能性は、未だに残っているのではないか。彼のことだ。あの手術室で意識を取り戻し、裂かれた腹を自分で塞ぎながら生き永らえることくらい、彼ならやってのけるかもしれない。
そんな滅茶苦茶なこと、あり得るわけがないと思う僕もいたが、初めから彼は滅茶苦茶だったじゃないかと思う自分も同居していた。
警察の説明が終わった後、僕は警察署を出て梶川君の住んでいたアパートを訪ねた。彼の部屋の前に行って、試しにインターホンを押してみた。中からは、足音も、気配も、息吹も、音楽も感じられなかった。
確かに梶川君は消えたのだ。その姿以外、何もかもを残して。
―続―
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