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【読書記録】『みんなが手話で話した島』~その「つまらなさ」が面白い~

 読書の秋も終わりに差しかかっている。
 若者の読書離れ、活字離れ、出版業界の苦境などが嘆かれて久しいが、心なしかこの時期には本屋も人が多いように思う。読書の秋がどういった経緯で定着したフレーズなのかは分からないが、やはりまだまだ単なるキャンペーンではないのだろう。
 せっかくの読書の秋だ。この秋、私が読んだ本の中で印象的な本を1冊、紹介しよう。この本、実は私が大学生の頃にある授業で読んだ本だ。もちろん、授業の中の資料として扱われたものだから、全部を読むことはなかったし、当時は絶版になっていた本だったから通読も難しかった。しかし、最近その本が復刊したと知り、このタイミングで通読してみようと思ったのだ。

ノーラ・エレン・グロース『みんなが手話で話した島』佐野正信訳, ハヤカワノンフィクション文庫, 2022

 この本はアメリカ・ボストンの南にあるマーサズ・ヴィンヤード島の島民の生活についてのフィールドワーク研究だ。
 この島はかつて多くの研究者が注目した島だった。かつてこの島の島民は、みんな手話で話したのだ。この島では、遺伝性の聴覚障害がある人が多く見られた。この島では、耳が聞こえる人も、耳が聞こえない人もみんな手話でコミュニケーションをとることができた。
 この島に、どのくらい手話が根付いていたかというと、聞こえない人が聞こえる人と同じように働いたり、結婚したり、政治に参加したり、教育を受けたりできたほどだった。
 これは私たちの社会のある意味で理想のように見える。障害の有無に関わらず、そういう人たちが十全に社会に参加して、当たり前のように一緒に生きていける社会。これだけ聞けば、誰も文句のつけようのない社会のように見える。というか、恐らくそうだろう。
 しかし私たちはそういう社会が、局所的かつ専門的なケアと道具立てをもってしてしか実現できないと思いがちである。だから、健常者と違う教育を受けるし、専門家以外には扱いづらい支援ツールが教育や労働や結婚生活に必要だと思われる。だから、さっきのような理想を説かれたところで、とても実現できそうにないと思われる。
 でも、マーサズ・ヴィンヤード島では、専門的な道具立てやケアが充実していたわけではないし、この本の要点はそこではない。「いや、待て。その島ではみんなが手話で話したのだろう?だったら、その島では聾者への支援なりケアが充実していたのではないか?」と言いたくなるだろう。でも、この島の島民は、障害やケアへの考え方が私たちとは根本的に違う。
この本の冒頭で、この研究の中で行われたインタビューのやり取りが書かれている。

「アイゼイアとデイヴィッドについて、何か共通することを覚えていますか」
「もちろん、覚えていますとも。二人とも腕っこきの漁師でした。本当に腕のいい漁師でした」
「ひょっとして、お二人とも聾だったのではありませんか」
「そうそう、いわれてみればその通りでした。二人とも聾だったのです。何ということでしょう。すっかり忘れてしまうなんて」
(p.26)

 ちょっと衝撃的ではないだろうか。「あの人はどんな人でしたか?」と聞かれた時に、その人が耳が聞こえないと知っていたら、私たちは真っ先に「あの人は耳が聞こえませんでした」と答えるだろう。
 でも、この島の人たちにとって「耳が聞こえないこと」はさして重要ではない。耳が聞こえなかったかどうかよりも先に、漁師としての腕の良さが口をついて出てくるくらいに、どうでもいいことだったのだ。

「障害」とは何かを問う

 勘のいい方はもう分かると思うが、この島では聾は「障害」でもなんでもなかった。「私は聾のことなど気にしていませんでした。声の違う人のことを気にしないのと同じです」(p.27)この島民の発言から分かるように、耳が聞こえるかそうでないかは、彼らにとって声の違い程度のものでしかなかった。
 「障害」の捉え方に医学モデルと社会モデルというのがある。医学モデルは、障害の原因を個人の特性に帰属させる考え方だ。それに対して社会モデルは、障害の原因を社会構造によって生み出されるものだと捉える。今回の場合だと、聾が障害だとみなされるのは、耳が聞こえない人間が参入することを前提に設計されていない社会構造があるからだということになる。マーサズ・ヴィンヤード島のような社会であれば、聾は障害でもなんでもないのである。
 注目すべきは、彼らのこうした考えや行動が聾者に対する「善意」や仰々しい人権意識からくるものではないということだ。手話を学んでいる人を見ると、私たちはその人を奉仕の精神と善意に溢れた者のように見る。でもこの島の島民は「手話ができて当たり前」なのだ。私たちが日本で日本語を話す時、その全て(ほとんどが?)が善意や奉仕の精神からくるものではないのと同じだ。彼らからすれば、自分たちが手話を話すのは、聾者へのケアでさえないのだ。
 最も、マーサズ・ヴィンヤード島に頻出した遺伝性の聴覚障害は、ある一定の狭いコミュニティ内での交配によって現れたものだったというこの島特有の事情が、手話で話すことに対する無自覚さを支えていたのだが、詳しくは本書を参照してほしい。

面白い「つまらなさ」

 この本を読み進めていくと、本当に自分が聾者の社会生活についてのフィールドワーク研究を読んでいるのかと疑わしくなってくる。途中から、書かれていることが何一つ障害のない「普通」の人間の生活誌を読んでいるようで、つまらなくなってくるくらいだ。私たちと同じように仕事をして、結婚して、与太話をして、男たちは女に隠れて下ネタを話す。でも、この本の面白さは、恐らくこういった「つまらなさ」にある。
 なぜ「つまらない」と感じてしまうのか。それは、マーサズ・ヴィンヤード島に対して、私たちが珍奇を期待してしまうからだ。「みんなが手話で話した島」と聞くと、私たちは思わずその島に、私たちの暮らす社会にはない珍奇な何かを期待してしまう。しかし、マーサズ・ヴィンヤード島の島民たちは見事にその期待を裏切るのだ。
 そうした私たちの聾者コミュニティの珍奇に対する期待を、「つまらなさ」という感覚を基準にして炙り出す。それこそ、この本の最もインパクトのある点だ。

「ちゃんと」喧嘩が「できる」島

 最後に印象に残ったシーンをもう一つ紹介させてほしい。手話が十全に使いこなせる者同士はよどみなくコミュニケーションをとることができる。彼らは確かに共生していた。共生と聞くと、よどみなく誤解のないコミュニケーションの上で、聾者と健聴者が仲睦まじく暮らしていると思うだろう。
 しかし、日本語で話す者同士は、同じ言語を分かち持つものとして分かり会える可能性もあれば、衝突の可能性もある。これはマーサズ・ヴィンヤード島の場合も同じだ。本書の中で、島民同士が手話で喧嘩したことを証言する人のインタビューがあった。
 私は先日、英語で道を尋ねてきた男に道案内をした、僕は何とか英語で応じた。目的地に案内して、お互いに穏やかに別れた。平和な光景だったと思う。
 でも、私たちは喧嘩ができるだろうか? もちろん、しないに越したことはないし、わざわざしなくていいのだが、答えはNoだ。だって私たちは、喧嘩できるほど言語の壁を越えられていないからだ。
 手話であれ何であれ、ある言語を深いレベルで習得し内面化することは、その言語を以て衝突する可能性をも内面化するということなのだ。この島の島民は確かに共生していた。聾者と健聴者がちゃんと喧嘩できるくらい、彼らは共生できていたのだ。そういうことが痛感できる場面も、もれなく描かれていたところが、本書のリアリティを引き立てていたように思う。

最後に

 全体を読み通してみて、私が新しく興味が湧いたのが、このマーサズ・ヴィンヤード島の街づくりや道具のデザインについてだ。本書は、聾者の存在を前提としたコミュニケーションの土台が深く根付いた地域における人々の社会生活にフォーカスされていた。
 一方、彼らの使う道具や歩く街や使用する建物がどのようにデザインされていたのかについてはあまり書かれていなかった。私たちの暮らす社会の前提とは違う前提で動く社会では、道具や建築、都市設計はどう変わるのか。例えば、町内放送やラジオと人々どう付き合っていたのとか、この島にジュークボックスはあったのか、もしくはそれを欲した人がいなかったのかとかだ。
 つまり、島で暮らす彼らを囲んだ外的環境がどのようにデザインされていたのか、という点がとても気になる。でも、この本を読んだ後だと、その答えは私たちと大して変わらない、つまらないものなのかもしれないと思わされる。

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