【連載小説】『陽炎の彫刻』3‐1

 この辺で、僕と梶川君が出会った時の話をしておこうと思う。僕と梶川君が出会ったのは、僕の今の職場だった。諸々の理由から具体的な仕事内容などの説明は差し控えることにする(仮にそうしたとしても、物語の本質を解する上で困ることはないだろうから。最も、この話に本質というものがあればの話であるが)。僕は、別の会社から今の会社に転職してきたのだ。そこに彼がいたのだ。当時はお互いに24歳だった。
 転職してきて、まだ新しい人間関係に馴染めずにいた時期のこと。新卒社員の歓迎会も兼ねて、僕の歓迎会も開かれることになった。その歓迎会の席で、当時の上司から、他の部署に僕と同い年の社員がいることを聞かされた。それが梶川君だった。僕の歓迎会に梶川君は参加しておらず、その夜は彼に会うことは出来なかった。
 社員の数もそれほど多くはない中小企業だったが、部署によって仕事が違うため、他の部署の人間に会うことは中々なかった。梶川君に会うことなく、季節は夏になっていた。その頃には、新しい職場の人間関係や仕事にも、何となく慣れていった。就職自体は初めてではなかったし、以前の会社でも社会人として働いていたわけだから、職場に馴染むこと自体はそんなに難しいことではなかった。
 ある日、僕は会社の先輩と飲みに行く機会があった。佐々木さんという当時の僕の先輩は、その年から僕の勤めていた部署に異動になった男だった。同じ社内でも、部署異動ともなると仕事も人間関係も目新しく映るらしく、同じ年に入社した僕にもシンパシーがあったのか、僕のことを何かと気にかけてくれていた。感じのいい先輩だったことを今でも覚えている。
 店は立川にあった個室の居酒屋で、これといって売りの料理がありそうな感じではなかった。どちらかと言えば、店の雰囲気を売りにしているようで、店内で流れる音楽や装飾、他の客の声があまり聞こえないような店の設計などはそれなりに凝っていた。
「どうだい、もう新しい職場には慣れてきたかな?」
 佐々木さんはビールを煽りながら、そう切り出し僕の職場ついての印象を伺った。佐々木さんの詳しい年齢は覚えていないが、当時30代後半といった風体で、結婚指輪をしていた。学生時代はラガーマンだったこともあり、割腹のいい男だった。彼も初めての新しい部署で、新しい仕事に慣れるのには苦労もあったのだろうが、職場ではそんな素振りはあまり見られなかった。社内では仕事のできる人だと評判があった。
 しばらく僕たちは二人で、お互いに前の部署や職場での仕事のことや家族(これは佐々木さんだけだが)のこと、学生時代のジェネレーションギャップのことなど、一通りそんな話題に興じていた。
「まあ、新参者同士、上手くやっていこうな。」
 そんな佐々木さんの一言で、この会はお開きになった。会計は彼が持ってくれた。店を出た僕たちは、お互い帰路につく段になった。
「松谷君、駅の方に行くのかい。」
「はい。」
「家はどっちの方?」
「国分寺の方です。」
「じゃあ、途中まで一緒だな。」
 僕と佐々木さんは駅に向かって歩いていく。時間は0時頃になっていたが、まだまだ人出は多かった。確か金曜日だったような気がする。通り過ぎる酔っ払いたちの、汗とアルコールの混じった匂い。
 夜道を歩いていると、佐々木さんが前方に目を凝らし始めた。佐々木さんは、見知った人間を見つけたかもしれない、と言い、僕に気を遣うような目配せを見せたあと、僕を置いて前を歩く梶川君を追っていった。梶川君は佐々木さんに声をかけられると、振り向いて驚いた素振りを見せた。
「佐々木さんじゃないですか。お久しぶりですね。」
 佐々木さんは追いついた僕に梶川君を紹介した。
「部署が変わってすっかり会わなくなっちまってね。元気にしてたか?」
 酒も入っていた佐々木さんは普段よりも陽気になり、梶川君にも鷹揚に接していた。佐々木さんと梶川君はこのとき久々に会ったこともあり、お互いの近況をそれとなく伝え合っていた。梶川君の方では、佐々木さんに放っておかれている僕に気を遣っている様子もあった。梶川君のその様子を佐々木さんは察した。
「同じ部署の松谷君だよ。今年から転職してきたんだ。」
「梶川と言います。去年まで、佐々木さんとは同じ部署で…。」
 一通り自己紹介を済まして、佐々木さんと梶川君と僕の3人はしばらくまた世間話に花を咲かせた。梶川君は友達と食事をしていて、その帰り道だったという。梶川君の気遣いで、佐々木さんと僕を家まで車で送ってくれるという。
「週末ですし、この時間でも電車は混んでいるでしょう。どうぞ乗って行ってください。」
 僕たちはお言葉に甘えることにして、梶川君の車が停めてある駐車場まで歩いていった。梶川君のワゴンアールに乗って、僕たちはそれぞれの家に運ばれていくことになった。僕は運転席の梶川君と対角線上になる後ろの席に、佐々木さんは助手席に座った。
 僕と佐々木さんの自宅の場所の都合で、佐々木さんの家に先に寄ることになった。佐々木さんの家に着くまで間、主に話すのは梶川君と佐々木さんで、僕は二人の会話に入っていくタイミングを中々掴めずにいた。佐々木さんがたまに僕に話を振ってくれたが、僕と梶川君の間で交わされた会話はそう多くはなかった。かといって、不思議と梶川君から僕に対する排除的な態度があるわけではなかった。
 車の中は、深夜ラジオとエアコンとエンジンが響いていた。信号に止められた時、ふと外を見ると、街灯の周りを虫が飛び回っていた。
 佐々木さんの家に着いた。佐々木さんは梶川君に礼を言い、車から降りて自宅に入って行った。

ー続ー

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