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【連載小説】『晴子』

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#連続note小説

【連載小説】『晴子』3

【連載小説】『晴子』3

 あの人は、私の本当の名前を知らない。私が晴子だということを知らない。彼は私を麻美と呼ぶ。麻美という名前は、彼が名付けてくれたのだ。
 あの人と出会ったのは、先日例の変な男に絡まれたあのバーだった。季節は冬で、その日は風の強い日だった。日が出る時間も短く、昼で晴れていてもなぜか明るく感じない季節だった。
 仕事終わりに飲みに来ていた私は、いつものようにカウンターでカクテルを煽っていた。その日は何故

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【連載小説】『晴子』4

【連載小説】『晴子』4

 仕事を終えて、今日はまっすぐ帰ることにした。あの人に会う予定もなかったし、気に入っていたあの店も、例の件があって以来、行きづらくなっていた。梅雨は明けて、昼には入道雲も見えるようになっていた。蒸し暑く汗も噴き出して、肌がべたつく。
 家に着くと、ストッキングを脱ぎ捨てた。こんなもの、ずっと履いていられるわけがない。私は、後ろに束ねていた髪を雑にほどいて、衣服を剝ぎ取っていく。シャワーを浴びた。気

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【連載小説】『晴子』5

【連載小説】『晴子』5

 大学も敷地内禁煙なんかやめてしまえばいい。
 正門前で煙草をふかしながら、俺は正門から出ていく学生をにらみつけていた。といっても、俺も奴らと同じ大学に通っているわけだが。
 大学時代を人生の夏休みと言う馬鹿が世の中には多数いるが、大学生活なんて夏休みよりも退屈だ。授業は何一つとして面白いものはないし、課題だって上手くやれば簡単にちょろまかせる。レポートもテストも、暇な知り合いに頼むか、同じ授業を

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【連載小説】『晴子』9

【連載小説】『晴子』9

 片方のイヤホンからFacesを流しながら、俺は森彩也子の話を聞き流している。——ああ。はい。ええ。そうですね。そうなんですか?大体この手の返事をルーティンしておけば(そしてたまにオウム返しを挟めば)、何となく満足して帰っていく人間が大半だ。あとは、相手が満足に至るまでどれだけの時間を要するかが問題になる。だから今俺は、いつになったらイヤホンを両耳に差して、ちゃんとFacesを聴けるのだろうかとい

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【連載小説】『晴子』11

【連載小説】『晴子』11

 その日は日曜日で、休日でも起床時間はほとんど変わらない私だが、なぜか昼過ぎあたりで眠気に襲われた。いつも仕事をしている時は、こんな時間に眠くなったりしないのに。仕事中の緊張感が(あるとしても、もうすっかり慣れっこになっているだろうが)、本来であれば来るべき眠気を遠ざけていたのかもしれない。
 日曜日が休日になるのは久々のことだった。休日の店はかき入れ時という事もあり、大概仕事に出ている。仕事がな

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【連載小説】『晴子』12

【連載小説】『晴子』12

 大学の誰もいない教室で、気が付いたら机に突っ伏して眠っていた。イヤホンからはLOVE PSYCEDELICOが聴こえてくる。寝る前に聴いた覚えのある曲だから、アルバムを一周していたのだろう。
 眠りに落ちる前は、誰もいなかったはずの教室は、もう半分くらい席が埋まっている。次の時間、授業で使うのかもしれない。俺は隣の席に置いてあった鞄を手に取り、他の場所に移動した。
 次に俺が考えたことは、そもそ

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【連載小説】『晴子』13

【連載小説】『晴子』13

 更衣室でため息をつく菖蒲ちゃんに声をかけたことがそもそもの失敗だった。
「えー、月島さんの恋人がこんな感じなんて、ちょっと意外です。」
 菖蒲ちゃんの彼氏(現在名古屋に赴任中)が、月末に予定の空きを確保できないということ。いつもは月の最後の週末は食事に出かけることを約束していた二人だが、今月はそれが実現できそうにないということ。
「これ、悪く言うつもりはないんですけど、月島さんって、ちょっと男性

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【連載小説】『晴子』14

【連載小説】『晴子』14

 寒くなったわけではないが、日中でも汗をかくことがすっかりなくなった。風が乾いていくのを日に日に感じる私の肌に今、窓から差し込んだ和らいだ日差しが落ちている。暖色の照明が落ち着いている喫茶店で、あの人を待っている。
 秋の休日だが、それは私にとってそうなのであって、街やあの人にとっては平日だ。外を見ると、通りの行く人の顔は仕事中の顔で、街全体が緊張感に満ちている。まだ昼頃だから、当たり前と言えば当

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【連載小説】『晴子』15

【連載小説】『晴子』15

 俺と島田は、一緒に帰路につくことになった。
 結局、井川の野郎は今回の合コンでも散々だった。そもそも、合コンの幹事として遅刻してくるなんて最低だ。開始時間が遅れたことで、女の子側の幹事が心なしかイライラしていたし、そのせいで雰囲気も初っ端から台無しだった。
 井川が無神経を身に纏って到着した時には、一瞬だけ空気がピリついた。それだけならまだしも、井川自身はその空気を全く察することができないでいた

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【連載小説】『晴子』18

【連載小説】『晴子』18

 あの人と、久々に夜を共にすることができた。季節は出会った頃と同じような冬になっていた。今年の冬は本当に寒く、むき出しの皮膚が鋭利な何かで引っかかれるような寒さだった。これで雪が降らないのは驚きだ。昼夜を問わずベッドから出づらい。特に今の私の場合は、あの人の腕に抱かれているからなおさらだ。
「ねえ。」
 あの人に話しかける。お互いに重く、鈍いまどろみの中にいた。
「何?」
「聞きたいことがあるの。

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【連載小説】『晴子』20

【連載小説】『晴子』20

 Sonic Youthは、80年代のオルタナロックシーンを語るにおいて、やはり欠かすことはできない。彼らの登場はもはや事件と言っていい。ステージではパンク的精神を彷彿させるスタイルを貫く一方、LSDなどのドラッグによる幻覚の連想させるサイケデリックな世界観を体現している。サーストン・ムーアの過剰ともいえる歪みをのせたジャズマスターのサウンドは、シューゲイザーからの影響をうかがわせるが、シューゲイ

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【連載小説】『晴子』22

【連載小説】『晴子』22

 4番卓に生ビール4つ、ハイボール2つ。17番卓に串カツ3種盛り二人前、24番卓が会計を済ましたから、空き次第新規の客を通す。
 頭の中で記憶した情報を忘れないように高速で反復しながら、キッチンの方へ戻る。キッチンからの料理を待つホール担当のバイト2人が待機している。
「4番卓に生4つとハイボール2つお願い。あと、24番卓が会計済ましたから、あの人ら帰り次第即片付けて新規通しちゃって。」
 ハンデ

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【連載小説】『晴子』23

【連載小説】『晴子』23

 鶴田のことを思い出した。高校時代の同級生だった彼とは、よくつるんで遊んでいた。放課後を待たずに、昼休みを超えたあたりで仮病を使って学校を抜け出し、高校の近くにあった酒屋の自販機の前で集合した。
 待ち合わせ場所に行くと、鶴田は自販機の前のベンチに座って缶のサイダーを飲んでいた。彼は俺を見て言った。
「今日は腹痛か?」
「残念。身体が怠い。」
 仮病の時に、教師に何と言って抜け出してきたのかを当て

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【連載小説】『晴子』24

【連載小説】『晴子』24

「それは大変だったね。」
 あの人は、バーのボックス席に前のめりに座ってホットウィスキーを舐めながら私の話を聞いていた。先日の菖蒲ちゃんの話だ。
 結局あの日、あの人と会う予定だったが、菖蒲ちゃんの隣を離れるのが何となく憚られて、彼との予定を延期することにしたのだ。
「それで、僕との約束が流れたと。」
 という彼の表情は、決して不機嫌ではない。
「ごめんね。でも、あのままだったら、あの娘、何しでか

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