同じ日にその後、死刑判決を受けることになる二人と遭ったときのこと。

今まで48年間生きてきて
あったことのある人、で
通算で

4名が死刑判決を受け(うち2名は死刑執行済)
4名がノーベル賞を受賞している。

このため、私が心をゆるしている友人らからは
「歩く事故物件」という
ありがたくないニックネームを頂戴している。
甘んじてそれは受け入れているのだけれども(笑)

今回はその中でも二件の
死刑囚の話について書いてみることにする。

一生のうちで
死刑判決を受けるような人と出会うことがあるだなんて
滅多にないことだと思うんだけども
くわえて、おなじ日にその後、別々の案件で
死刑判決を受けることになる二人と遭う、というのは
天文学的な確率なのではないか?と思う。

ここで私の出自について少し触れておこう。

私は1975年に
青森県 南津軽郡 浪岡町
という地域で生まれた。

面積で比べてみると
人口270万人の大阪市の6割弱という
広大な面積をもっておりながら
浪岡町の人口は2万人。

面積のほとんどが
田んぼと畑、の田舎である。

が、
浪岡町の有名人となると

・横綱 隆の里(引退後、親方として稀勢の里を見出し横綱に育てあげた)

・三浦雄一郎 (プロスキーヤー、エベレスト登山とかで有名な人。
最近だとサントリーのサプリ セサミンのCMで有名)

・寺山修司 (カルメンマキの「時には母のない子のように」の作詞者
にして劇作家、詩人)

とかがいる。

厳密に言うと
三浦雄一郎は父親が今でいう林野庁の役人であり
各地を転勤で転々とすごしていた中で
一時期住んでいた、というのが正解なので
厳密には浪岡出身の人間とすることはできないし

寺山修司についても
父親が警察官で県内を転々とする生活の中で
一過性として過ごしていたのが
浪岡なので
厳密には浪岡出身の人間とは言えないかもしれない。

ただ、三浦雄一郎と寺山修司については
彼らの人生に浪岡での生活は
深い影を落とすこととなる。

三浦雄一郎は
今でいう青森高校(県内トップの進学校)から
旧帝大である北海道大学獣医学部へ
進学し、まぁ、浪岡の人間が誰もがうらやむような
エリート人生をあゆんでおり
なおかつスキー選手としてもトップの腕前をもっていた。

おそらく、あのままスキー選手として活躍できたなら
オリンピック他の国際大会でも活躍できたであろう。

が、冬季の国体選手の枠、代表をめぐって
青森県側とモメにモメた。

もともとの出生地が青森県ではない「よそ者」だったのと
高学歴なことに対する嫉妬と
スポーツ選手としての優秀さに対する嫉妬

こういうのは田舎ではよくあることなんだけども

そういう人に対して
「いい気になってる、懲らしめてやれ!」と
徒党を組んで潰しにかかるのが
田舎の常である。

結果、三浦雄一郎は
スキー選手のアマチュア資格を
永久剥奪された。

これに関わっていたのは
三浦雄一郎に嫉妬していた浪岡の連中であった。

これにより、三浦雄一郎は生涯
国体の選手、オリンピック選手候補に
なる機会そのものが奪われた。

それをして
手をたたいて喜んでいたのが
浪岡の連中であった。

なので、三浦雄一郎はスキー選手として
きわめて優秀であったにも関わらず
選手として一番活躍できる時期に
オリンピック他の競技大会
スキーヤーとしての公式記録は一切ない。

アマチュア資格を永久剥奪されてるので
彼の肩書が「プロ」スキーヤー
となってるのはそのためである。

その後、彼は持ち前の能力と根性とで
めざましい活躍を見せることになる。

70歳すぎてからのエベレスト登山成功
とか、そっちの方が有名なので
三浦雄一郎といえば「登山家」のイメージの方が
強いかもしれない。

ちなみに
彼が後年、世間的に成功しだしてから
浪岡の連中は三浦雄一郎に
媚びだしたけども
三浦雄一郎がそれに応じたことは
現在に至るまで一度もない。

私が子供のころに
町営のスキー場(かなり規模は小さい)で
「三浦雄一郎杯」とかいって
スキー大会が行われてたけども
当の本人が現れることもなければ
コメントを出すことすら一切なかった。

現在、90歳になっているであろう
三浦雄一郎が
これまで
浪岡時代に過ごしていたこと
青森時代に過ごしていたことについて

公にコメントしたり
触れたりすることは
一切ない。

青森市の名誉市民に選出されたにも
かかわらず
それに対して「ありがとう」とか
式典に出席するとか、そういうのも
一切ない。

「もう、浪岡とは、
青森とは生涯、かかわりたくない」

という態度がかなり露骨に出ている。
まだ北海道の人たちに対してのほうが
よほど親しげである。

やはり、それだけの禍根が残っている
ということなのであろう。

続いて、寺山修司。

私が生まれ育った街なのでよくわかるが
浪岡という街はよそ者には
ひどく冷たい。

親が警察官で県内を転々とする
という「転勤族の子」という出自と
両親が仕事上、忙しくて留守がち
という家庭環境もあって

浪岡時代の寺山修司はとにかく
孤独であった。

寺山修司の
青森県内で過ごしてたときの記憶としては
三沢市とか青森市の時の
記憶については記述があるけども
浪岡町に住んでいた時の直接的な記述は
あれだけ膨大な著作を残しておきながら一切ない。

が、間接的にならば、ある。
それもかなり重要な形で。

彼の代表的な作品の一つとして
「田園に死す」という作品がある。
映画化もされてる。


もしも、この作品を見ることがあったら
(映画版は私が解説しないと、かなり難解な内容となっている
これについては場を改めて解説しようと思う)

作品の冒頭では少年時代の主人公(=寺山修司)が
寺社仏閣で「かくれんぼ」の遊びをしている所から
話はスタートする。

オニ、の役目をする子が樹木等に寄りかかって
目をつぶって

「もーいーかい?」と叫ぶ。

かくれんぼ、に参加してる他の子どもたちは
「まーだだよ!」とこたえる。

その間にオニに見つからないよう
各々が隠れるわけである。

オニが「もーいいかい?」と訊いて
隠れてる側の子どもらが
「もーいいよ!」と応えたら
それで捜索開始である。

オニに隠れているところを見つかった子は
次の回でオニの役をやらされることになる。

これが「おにごっこ」という遊びの
おおまかなルールである。
最近では都市部だと
「おにごっこ」ができる場所すらほとんどなく
ゆえに「おにごっこ」を知らずに育った方も多いと
思うので、とりあえず、あらましを書いてみた。

話をもどそう。
寺山修司は父親が警察官だったせいもあり
勤務地を転々とする生活が
幼いころから続いていたわけだけども、

そういった「ヨソからきた人」に対して
田舎の浪岡は極めて冷淡であった。

せっかく転校先の皆と仲良くなれるかと思って
一緒にあそぶことになったのに
「かくれんぼ」でオニの役目をするハメになった
少年時代の寺山修司は

なんど
「もういいかい?」と叫んでも
「まぁーだだよ!」としか返事がこない。

まだ返事がきてるうちは、まだいい。

そのうち、誰からも返事がなくなる。

そう、寺山修司、以外の子ども達は
皆、彼をほったらかしにして
各々、自宅へ帰ってしまっていた。

子どもの悪ふざけとしては
あまりにも残酷すぎる。

田舎の神社で周りに灯りもない中
暗くなっていく中
少年時代の寺山修司は
泣きながら、かくれんぼ、の
仲間たちを探しまわっていたという。

さぞかし寂しかっただらろう
さぞかし怖かっただろう。

が、浪岡の同級生らは
それをあざ笑って楽しむだけであった。

それが幾度も幾度も繰り返された。

誰一人として
寺山修司の味方をする者は居なかった。

これが田舎の「闇」である。

おそらく、この時の経験が
トラウマになったのであろう。

寺山修司には
「のぞき癖」という変な性癖がついた。

家に帰っても誰もいないわけである。

さっきまで一緒に遊んでいた連中の子たちは
家に帰って、家族団らんで
夕食を食べて笑っている。

それを真っ暗闇の中から
遠くからのぞいて、その光景を
自分自身に投影することで
ギリギリの孤独から逃げていたのであろう。

かなり残酷な仕打ちである。

気持ちとしてわからんわけではないし
子どものうちだったら、まだなんとかなるけど
成人男性の年齢を過ぎて
他の家をのぞき見してたら
これは立派な犯罪である。

犯罪としては軽犯罪になるが
寺山修司は劇作家として全国的に有名になったあとも
何度もこの「のぞき癖」のせいで
逮捕されている。

その元凶は浪岡ですごした少年時代にあった。

自伝的映画「田園に死す」では
やはり、境内での「かくれんぼ」で
スタートするし、

これについては後に同名の著作でも触れられているが

「私が『もーいいかい?』と叫んだ時
あたりは静まり返っていた」

「もう、いいよ」と応えたのは
年老いた私の声であった

と、述懐している。

ここまで書きあげてみて
改めて、自分の生まれ育った地域は
特殊な地域なのだな、と思った。

浪岡の有名人と言えば
現在進行形でいえば
バドミントン選手の
奈良岡功大 選手が挙げられる。

現在、日本大学の4回生。

国内ランキング1位
世界ランキング5位

で、年齢的にも実力的にも
来年のパリオリンピックで
日本代表になるのはもちろん

金メダルの有力候補とも言われている。

まぁ、そんな浪岡町だけども
現在、行政区としての浪岡町は存在しない。

2005年の平成の大合併により
隣接する青森市に吸収合併される形で
浪岡町は
「青森市 浪岡」という形に変更された。

だいぶ、前置きが長くなってしまった。

では、やっと、本題に入ることにしよう。

私自身、青森に関する記憶は
1997年で殆どが止まっている。

今回の話は
1997年 7月26日 土曜日 の話である。

当時、私は国立 弘前大学 教育学部の
3回生の学生であった。

今でいう青森市、浪岡、本郷にある
実家から

家庭教師として
初めて請け負った中学生の子のとこへ
行くために
自宅を出てJR浪岡駅を目指して
動いてる最中

浪岡駅前の通りに
シカナイ電器という家電量販店が
あるのだけども(現在もある)

その前を通りすぎた当たりで
わき見して歩いてる酔っ払いと
ぶつかった。

通常であれば「すみません」の
一言があれば
「はいはい」で終わるだけの話だったのだけども
相手は謝るどころか、逆ギレしだした。

「オラは悪ぐね」と。

今だったら、もういい歳のおっさんなので
「はいはい」とスルーできたんだろうけども
当時は血気盛んな20代だったので

「いや、わき見してぶつかってきたのはアンタだし」
「それで謝らないっておかしくね?」
と、こっちもマジギレして応戦した。

殴り合いのケンカにはならなかったけど
かなり激しい口論となった。

「なら、警察でも呼びます?」と
こっちが切り出すと

相手は

「オラは悪ぐね」


捨て台詞を吐いて去っていった。

これが彼に対する
私の印象である。

この時の相手が浪岡中学校すぐそばに

住んでいた小林光弘であった
もともとは
本郷地区出身の一族であった。
(しかも奥さんは本郷地区出身)

小林光弘はそれから4年後
マスク姿で

青森県 弘前市にあった消費者金融
「武富士」に
強盗目的で侵入し
店内にガソリンをまいて
「カネを出せ」と脅した。

店員が110番通報したことに
逆上しガソリンに火をつけたところ
店内は一気に火の海に。

犯人の小林光弘は一銭も奪うことも
できずに逃亡したが
この結果、店員5名が焼死するという
大惨事となった。

目撃者および生存者から得た
犯人のモンタージュ絵が公開され
武富士なんかは該当でくばるティッシュに
犯人のツラをのせて
情報提供を呼び掛けていたにもかかわらず

物証にとぼしく
事件の捜査は暗礁にのりあげていた。

実際のところ、あのままだと
事件は迷宮入りしてもおかしくない状態であった。

それが崩れたのは犯人である
小林光弘の自爆であった。

マスコミ各社に
犯人を名乗る男から
犯行声明文がとどいた。

・殺すつもりはなかった
・こんなことになるとは思わなかった
・店員が通報せずカネをよこせばこんなことにならなかった
・カネをださず通報した店員らが悪い

キメ台詞は

「オラは悪ぐね」

であった。

この時、各社に送られた犯行声明文
に残されていた指紋と

以前から需要参考人として追っていた
小林光弘の指紋が一致したことが
決め手となって
犯人逮捕となった。

もしも、小林光弘が生涯にわたり
口をつぐんでいたら
彼は逃げ切ることができたであろう、と
言われている。
たぶん、その通りだろう。

結果、彼自身の自爆により逮捕され
裁判では当然のように
死刑判決が出た。

晩年の頃には
「いつ死刑執行されるか、わからない」という
拘禁状態における恐怖から
室内で小便、大便を漏らす、ということが
日常化していた。

そして

2014年 8月29日
小林光弘の死刑は執行された。

ここからは風説でしかないので
どこまで本当かは
読者のみなさんの判断にゆだねるが

死刑執行の当日

小林光弘は
仙台刑務所内で
両脇をかかえられ
引きずられるかたちで
死刑台へ向かったという。

泣きながら、鼻水をたらし
クソ、小便をたれながし
両脇をかかえられ
引きずられていったという。

彼が最後の最後まで
叫んでた言葉は

「オラは悪ぐね」
「オラは悪ぐねぇ」
「オラはわるぐねぇー」

という断末魔の叫びであったという。

1997年 7月26日
青森市 浪岡 シカナイ電器の前で

「オラはわるぐねぇ」と
小林光弘が
私に吐き捨ててから
およそ17年後の死刑執行であった。

この話には大きく二つの
事後談がある。

私はオカルトとか信じないタイプだが
プライベートな経験なので
ここからは読者のみなさんに判断をゆだねる。

私が大阪に移住してきたとき、
当時、まだ30そこそこの年齢で
遊びたいざかりであった。

週末になるとクラブ(昔でいうディスコ)があって
そこに向かう途中、歩いてたら

やっぱり
わき見して歩いてた
酔っ払いとぶつかった。

「あれ?デジャヴュ?」と思った。

で、酔っぱらった小林光弘と
青森市 浪岡 の シカナイ電器の前でぶつかった時は
20代だったけども

このときは30そこそこだったので
やっぱりまだまだ、血気盛んだった。

酔っぱらってて
わき見して歩いてて
ぶつかってきてるわけだから

「すみません」の一言があれば
「あ、はい、わかりました」で済む話である。

そこを

「え?アタシ、悪くないしぃ(笑)」

とこっちの神経
逆撫でする発言してきた相手が
下村早苗であった。

当時、彼女は三重県在住、まだ結婚もしてた時期だった
らしい。これはあとになってから知った。

小林光弘のときと同じように
逆ギレしてバカにするような態度とるだけで
ふてくされて笑って去っていったのは
覚えている。

その後、彼女は離婚し
子ども二人を引き取った状態で
大阪へ移住し
風俗嬢として働いていたらしい。

風俗嬢として稼ぎながら
ホストに貢ぐ生活になり
そして、その後、あの事件が起きた。

3歳と1歳の幼子を残し
下村早苗は
ホストとあそぶために
我が子を放置した。

いや、放置したという言葉では生ぬるい。

外に出られないよう、窓ガラスの周りには
ガムテープをはって外にでられないようにし
玄関の前に続くドアの前も外側から
ガムテープをはって出られないようにしてから

出て行った。

この環境で3歳と1歳の乳幼児を残していったら
1週間たたずに死亡するのは
目に見えている。

マンションの近隣住民から「異臭がする」という
通報を受け、2児の死亡が確認され
事件が公になるまで
下村早苗はホストと遊び狂っていた。

亡くなった2児とも
遺体はミイラ化しており
3歳児のほうは
遺体の胃から紙オムツが検出されたそうだ。

裁判では
有期刑としては異例の
懲役30年が確定し
現在、下村早苗は服役中である。

私個人としては当時
「あー、小林光弘とぶつかったときと同じやな」
という程度の認識だったけども

片方が
死刑判決うけてて
もう片方は
懲役30年、である。

ここら辺が、
私が「歩く事故物件」と呼ばれる故である。

小林光弘 死刑囚の
余波についての、もう一つ
について言えば

青森市 浪岡の 死刑囚
小林光弘について

彼の死刑が執行されたのは

2014年 8月29日 である。

奇しくもこの日から1年たった
2015年 8月29日

青森市 浪岡で

工藤ラーメンマン子(仮名)が
親の見ている前、公衆の面前で
「私、明日から、葛西 りま イジメる!」
と宣言した。

その結果がこれである


加害者である
工藤 ラーメンマン子(仮名)は
当時、刑事責任を問える14歳未満だったので

ラーメンマン子他の
加害者全員は
家庭裁判所送致になってない。

つまり少年院送りとか
その手の刑事罰を一切受けずに
逃げ切った。

工藤 ラーメン マンコ他の
加害者親子達は
被害者が自殺した
翌年の命日に

わざわざ集まって
野外ビアパーティを開き
その模様を面白おかしく
SNS上にあげていた(現在は削除されてる)。

(ちなみに自殺命日に
ドヤ顔でSNS上の写真で
「かかってこいやぁ!」って
ドヤ顔で中指たててた
加害者グループの父親にして
野外ビアパーティの現場となった居酒屋の一家は
その後、店がつぶれて一家夜逃げとなった)

ここで注視すべきなのは

たかだか人口2万人の浪岡で
イジメ自殺事件が起きてて

しかも浪岡の死刑囚 小林光弘の
死刑執行の日から
きっちり、しっかり一年後に
ラーメンマンコが
「イジメ殺す」と宣言し
実際、約1年後に被害者は
電車に飛び込んで自殺しているという点と

犯行当時、14歳未満で刑事責任を逃れたことから

ラーメンマンコおよび
ラーメンマンコの家族らが

口をそろえて
「うちの娘は無罪だ!」
「あんなんで自殺する方が悪い!」と
公然と言い放つようになった。

それだけではない、

ラーメンマン子(ツラがラーメンマンそっくりな女だからこの名称)
および他の加害者親子らも含めて
コイツら、みな
口をそろえて

「オラは悪ぐね」


浪岡の小林光弘 死刑囚と
そっくりのことを
言い始めるようになった。

「あれ?デジャヴュ?」と?

これについてはこれからの時間が
検証してくれるであろう、ということで
それは歴史と読者の判断にゆだねることにする。

少なくとも私は関わりたくない。
そのために青森を離れたわけだし。

とまぁ、ここまでが
1997年 7月26日に
今でいう青森市 浪岡で
浪岡中学校に住む
その後、死刑判決を受けることになる
酔っ払いと遭遇しました、ってだけの話である。

あの日は気を取り直して
そのあとJR浪岡駅について
青森駅に出て
青森市内に出て

家庭教師として
初めて受け持った教え子のところへと
向かった。

青森高校となると
いちおう、青森県内ではトップの進学校である。
ゆえに目指すとなると
田舎とはいえど、いろいろとしんどい。

で、一応、私は青森高校卒なので(汗)
加えて、教育学部の学生だから
そこそこ教えることには自信がある。

家庭教師として初めてうけもった子
その子が
当時、青森市 佃中学校3年だった
加藤智大であった。

ここからは前に書いた記事と重複するから
手短にまとめるだけにとどめるが

要は教育方針をめぐって
加藤智大の母親と
大ゲンカとなり
そしてクビを宣告された。

加藤智大に関する記憶はこの日が最後である。

家庭教師として
青森市内に向かい、それで仕事をこなす
それだけのためだけだったハズなのに

酔っ払いにぶつかられて
大ゲンカするわ

初めて家庭教師として受け持った
おうちの子とは
母親と大ゲンカになり
クビになって(結局1ヵ月も教えていない)

と、さんざんな日

それが
1997年 7月 26日 土曜日
であった。

私はそれから3か月後ぐらいに
思う所あって
弘前大学をやめ
横浜国立大へ
入りなおすことになるんだけども

結果的には
この日にあった

小林光弘と
加藤智大は

それぞれ全く別の事件で
死刑判決を受け
死刑が執行された。

さて、読者のみなさんにきいてみたい。

一日に2名の死刑囚と遭遇する、というのは
天文学的な確率なハズである。

くわえて言うならば

1997年 7月 26日から

ちょうど
25年がたった、昨年

2022年 7月 26日

加藤智大の死刑は執行された。

はたして、これは偶然なのであろうか?

「歩く事故物件」と呼ばれるからには
それなりの
理由はあるんだけども
これは

単なる偶然なのか、運命かなんかの示唆なのか?

それは死ぬまでわからないと思う。

判断は読者の皆さんにゆだねる。

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