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恋しい日々は、ある種の痛み。



若者言葉はあまり使わない主義なんだけれど

その中でも、すきな言葉はある。


それは「エモい」という言葉。

もはや死語なんじゃないかと思って調べたら

意外とその歴史や背景は奥深かったし

使い道はとても広義になっていた。


今もさかんに使われている模様。

死語ではないみたい。


そもそも死語って表現はよくない。

言葉は死なない。




エモいって

emotional(感情的)に由来して

感情が深く切なく内面的であることをいう。


これが私の中でもしっくりきて

エモいって、なんか他の言葉では

ストレートに表すのが難しい。


切なさとか懐かしさ。

ノスタルジー(ノスタルジア)とかに近い。



ノスタルジーといえば。

ノスタルジー(仏語)=ノスタルジア(英語)

異郷にいて、故郷を懐かしむ気持ち。
また、過ぎ去った時代を懐かしむ気持ち。郷愁。

(デジタル大辞泉)



子どもができて、年齢を重ねるたびに

過去の思い出や体験に対して

この、「深い懐かしさや愛着」をますます感じるようになってきた。



オリジナルの言葉はギリシャ語で

nostos(帰郷)とalgos(痛み)に由来するんだって。


もとは医学的な意味で、

「故郷に帰りたいと願うが、二度と目にすることが叶わないかもしれないという恐れを伴う、病人の心の痛み」とされていたそうで。


心の病の一つだったことに驚き。


かつて戦時下では

兵士のノスタルジアの現象は

後ろ向きでネガティブなものとして

異国の地での戦意喪失の原因ともされていたらしい。

精神医学的なカテゴリとして

その概念は存在してたんだ。





時は流れて。



当初の「医学的疾患」としての意味合いはなくなり

一般の日常会話にも

だれもが抱く

一つの感情としてのノスタルジーが使われるようになった。




現代の私は思う。

故郷を思う気持ちって、

過去を懐かしむ気持ちって、

なんで切ないんだろう?




今が幸せでも

未来が輝いていても


いつも、過去には、とてつもない魅力がある。







先週末、ちょっとした用事で帰省した。


たまたま、甥っ子の部活の試合があることを知った。

バスケ部。


私の母校であり、かつて私もバスケ部だった。



この試合、

中体連という

3年間の集大成

負ければ3年生にとっては引退試合になる節目の大会。


ちなみに甥っ子は1年生だから出場予定は無し。


応援にいく権利としては

ちょっと弱めだけれど、

実家での予定も特になかったし

勢いで観に行くことになった。

うちの娘たちも連れて。

うちの母も乗り気で。

(甥っ子の迷惑になることには気を付けて)

みんなで行った。



体育館に着いた。


私は学校で働いているから

体育館はそんなに珍しい場所ではないのだけれど


ものすごい懐かしさがこみ上げてきた。


お揃いのTシャツ

バッシュの音

汗のにおい

ブザーの音

応援の声

湿度の高い空気



自分の過去に対峙するには

すこし唐突で

心の準備ができていないままだった。



私は、当時すごくバスケが好きだった。

小学生の頃から

生活の中心は部活だった。


学年にかかわらず

バスケを通してたくさんの仲間ができた。




私の最後の試合

約20年前の中体連は、ライバルの中学に僅差で負けた。

今でも鮮明に覚えている。

あっさり終わったバスケ人生。



高校ではバスケ部には入らなかった。


勉強との両立も心配だったし

それよりも

また1から始める勇気がなかった。

挑戦して傷つくことがこわかったんだと思う。


好きだからやる、という

そんなシンプルなことが

当時の私にはとても難しく思えた。



友達がみんな続けたバスケを

私は遠くから見ていた。


いつのまにか、

自分がかつてバスケ部だったことも

遠い遠い昔の話になったし

みんなと同じような温度で語ることができなくなった。


どんだけネガティブやねんって

今は思うけれど

私はそういう性格だった。




20年後。


自分の子どもを連れて

かつての自分の居場所だった、体育館にいる。



試合会場には、

当時わたしたちを指導してくれた

監督の姿があった。

まだ現役で指導をされていることは知っていたけれど。


体育館で先生たちを見ると

熱いものがこみ上げてきた。


同じ学生時代を過ごした友人もいた。



私は、とても嬉しい気持ちになった。


私が疎遠になった場所に、

今もまだその人たちは居てくれた。


そう、「居てくれた」という気持ち。



同じ時間が流れていた。


白髪が増えて

少しふくよかで

いろんな意味で丸くなった先生たち。

怒声や喝は

アドバイスに代わっていた。



確実に、時は流れた。


けれど、変わらないものは確実にそこにあった。



友人たちの計らいで

試合後に先生たちと話すこともできた。

私のことなんて覚えてないと思って・・・と言うと、


「覚えてるにきまっとろうが!ばかたれ」

と言ってくれた。


心底うれしかった。


ちゃんと自分から声を掛けられる人になりたいと

強く思った。

たとえ忘れられていようが

ちゃんと声をかけたい。

傷つくことをおそれちゃだめだって。





私は、懐かしさとともに

少しだけ心の痛みを感じた。



そう

ノスタルジーは、ある種の痛みなんだ。


取り消したい失敗や

心の弱さ

恥ずかしい過去も。

未熟だった過去の自分との対峙。


若さや過ぎ去ったものは

取り戻せない。

体力という肉体的な要素だったり

単純に「若さ」そのものであったり

心の純粋さや

自分のことだけに注力できるという

立場や時間的な要素だったり。



けれど、人は進んでいくものだから

過去を生きるんじゃなくて

過去と共に生きる必要がある。



私は「今」をとても大切に思うし

とても満足している。


自慢できる過去ばかりではなく

むしろ蓋をしたい思い出もいっぱいあるけれど。



これからも、

ほんのりと刺さる痛みと共に

生きていく。


心がときめく過去を

たくさん抱きしめて


これからも歳をとっていきたい。




今日も読んでくれて、ありがとう。

最後に、私の中でめっちゃエモい曲を載っけて

このページを閉じたいと思います。

この記事の気分にぴったりです。

休みの日
部活に向かって
自転車こいでた風景を思い出させる曲。

カネコアヤノ/恋しい日々

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