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ぺろもコーラが飲めない

読書記録】少年と犬/馳星周を読みました

少年と犬 馳星周 2020年 文芸春秋
文藝春秋に連載された五篇の連なる短編集のような小説

犬の公平性と誠実性。そして犬の持つある種の野生の強かさのようなもの。
犬の傍若無人さ。

池田晶子さんのいうところの「犬の力」というものでしょうか。人を無防備にして、愛を教える。はたまた江國香織さんのいうところで言えば、「私が犬に特別扱いされている」のだ でしょうか。

この小説は犬は実はあまり関係性を結んでいない。その犬の傍若無人さ。気高さ。犬の力。
 そして結んでいない事で、その犬の持つ力の大きさが際立っているような。犬の距離感の公平性が読み進めるごとに、じんわりじんわり俺の方にも伝わって、気付けば俺の方にも眼差しを配る。
 語りかけもしない。愛想を振りまくわけでもない。
 読んでる人達にただ犬の等身大の温もりだけを伝えてくる。

対して、人間は須く「犬のちから」の前に抗うことができない。
あの心が溶けて心臓がぎゅうとなって、なみだが流れてしまう。あの無防備さ。

かくいう俺はと言いますと。
俺も黒の豆柴を飼っていました。ぺろ。
ぺろは俺の親友でした。俺もぺろの親友でした。
ぺろを前にすると何故か心が緩み、泣くのを我慢できなくなるんですね、何故か笑 ふだんあまり人とコミュニケーションを取ったり、思いを伝えたり、上手ではないからでしょうか。 
 昨年の5月に亡くなりましたが、今でもぺろの毛並みや爪が床に当たる音、寝息、重み、ご飯のボウルと餌のかちゃかちゃ言って食べる音。いろんなことが忘れられません。
 ぺろの事は書き出すとキリがないので、別の機会にいつか書きたいなぁ。

 ちなみに心理学的に考えると、俺がセルフコンパッションのセッションをすると現れるのが、ぺろとおばあちゃんです。
 俺がどんなにダメでも、元気が出なくても、失敗しても、頑張れなくても、許してくれる存在。俺が愛されている証。

 チャッチャッチャッチャと爪が床に当たる音がして、ぺろが足早にやってくる。まずは再会を喜びます(ぺろは毎朝再会を喜んだ。眠りから覚める度に100年ぶりに再会したみたいに。)顔を舐め回して、俺の身繕いをしてくれます。彼の方がお兄さんなので、お世話してくれてるんですね笑  その舌触り。毛並み。
 そして彼はご飯を食べて(ぺろはこれも目論見)、ご飯のお皿をしばらく舐めて、水をピチャピチャ音を立てて飲む。
 そして満足すると、鼻なんかんっふとか一つ鳴らして、俺に近づいてきて、体を押し付ける。くるりとクッションの具合を確認しつつ、俺にお尻を押し付けて座り込む。
 俺がどんなに頑張れなくても、どんなにダメでも、失敗しても、辛くても、ぺろは再会を毎朝喜ぶ。撫でさせる。俺はぺろによって存在をこの世に許される。
 たとえもうこの世にいなくても、ぺろは俺を許し続ける。この全権の確信。

 犬の持つ力によって生かされる弱い私。
今日もいっこいっこちいさなことでもいいから頑張りましょうかね〜

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