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エリザベス・キューブラー・ロス『「死ぬ瞬間」と死後の生』「生、死、死後の生」トンネルと光

聖書は象徴言語に満ちています。
人々はその美しいメッセージを
素直に理解しようとはせず、

自分自身のマイナスイの感情、恐怖、罪悪感、
自分やひとを罰したいという欲求などを
そこに読み込んでいますが、

もっと自分の霊的・直観的な部分に耳をかたむければ、
美しい象徴言語が理解できるようになります。

死の床にある患者さんたちが、
自分達の欲求や知識や認識を
私たちに伝えたいときに使うのも、
それと同じような象徴言語です。
言うまでもありませんが、
ユダヤ人の子どもがイエス・キリストを見るとは思えません。
たぶんプロテスタントの子どもがマリア様を見ることもないでしょう。
でも、
イエスやマリアが
ユダヤ人やプロテスタントの子どもが嫌いだというわけではありません。

私たちはいつでも
本当に必要なものをあたえられるのです。

私たちを出迎えてくれるのは、
先に死んだ、
私たちがいちばん愛していた人たちです。
その、
私たちが愛していた人たち、
そして
守護霊や守護天使に迎えられた私たちは、
象徴的な場所を通過します。

その場所は
しばしばトンネルとか川とか門という形で描写されます。

人は一番ふさわしいと思う象徴を選びます。

私自身の体験では、
その場所は野花の咲き乱れる山道でした。
理由は単純です。
私の思い描く天国には山があり、花があるからです。

何しろ私はスイスで幼年時代を過ごしましたから。

どんな場所を通ってあの世へ行くかは、
その人の育った文化によって決まるのです。
トンネルなど、
人それぞれにとってふさわしい形の、
この視覚的に美しい場所を通り抜けると、
私たちは、
私の患者の多くが語ってくれた、
光の源に近づきます。

私自身も体験しました。
それは
「宇宙意識」とでも呼ぶべき、
信じられないほど美しい、
忘れることのできない、
人生を変えてしまうような体験でした。
私たち西洋人は
この光を
「キリスト」とか「神」とか「愛」とか「光」
と呼びますが、
その光の前に立ったとき、
私たちは
全体的・絶対的無条件の愛・理解・共感に包まれます。

この光は、
物理的エネルギーや心的エネルギーではなく、
霊的エネルギーの源です。

人間には
この霊的エネルギーを使うことも操作することもできません。

それは、
マイナスの感情がひとかけらもない存在領域のエネルギーなのです。

つまり、
現世にいたときに
私たちがどんなに悪く、
どんなに大きな罪悪感を抱いていようと、
その世界には
マイナスの感情はいっさいないのです。

しかも、
「キリスト」とか「神」と呼ばれるこの光に
裁かれることも絶対にありません。

なぜなら、
それは絶対的・全体的な無条件の愛なのですから。

私たちは

死において

先に死んだ愛していた人たちと

守護霊や守護天使に迎えられて

象徴的な場所である

トンネルや川や門のようなところを通過するということです。

その場所は育った文化によって決まるというのです。

・・・

そして

その場所を通り抜けると

光に源に近づいていきます。

その光は

霊的なエネルギーであり、

私たちは

絶対的・全体的な愛・理解・共感に

包まれるというのです。

・・・

現世でどんなに悪くても、

大きな罪悪感があったとしても

その世界には全くマイナスの感情はないので

その光に

裁かれるということもない

というのです。

・・・

死は

すべての人を受け入れて

すべての人に対する愛である

ということになります。

・・・

死後の世界の

光にある

無条件の愛とは

素晴らしい愛だと思います。

偽りのないほんとうの温かさに包まれるのです。








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