死海より低い自己肯定感

こんにちは、もちこです。
前回の初noteを閲覧してくださった方々、そして今回この記事に出会ってくださった方々、本当にありがとうございます。

文章を書くことは好きですが、改めてどなたかに読んでいただくための文章を書くというのは難しいなと実感しました。

この記事は前回のnoteの続きのような内容から始まりますので、よろしければ、先にそちらをご覧いただいてから、読み進めるとわかりやすいと思います。

そんな時間はないぞという方は、以下の要約をご覧になり、読み進めて頂ければ大方状況把握は可能かと思います。

社会人になり、初めて勤務した学校がやりがい・奉仕の精神を強要する環境でした。周りも同じ状況なので、おかしいとも思わず勤務をしていたが、天気が訪れることに。

前回のnote

2年目の苦悩


この学校で1年洗脳されていた私は、そこで2年目も勤務することになり、もともと別の学校で働いていた年の近い同性の非常勤の先生(A先生)は、「こんなことやってられっか!」と言い、1年で去っていきました。(4月の段階で、1年で辞めると漏らしていたので、特段驚きはなかった)

私はA先生とプライベートで会うくらいには仲が良かったため、いざ10月にA先生が管理職に退職を伝えた日は、気分が暗く、落ち込みました。
A先生は、私の置かれている環境は異常だ。このまま続けたらもちこがおかしくなる。ほかの学校に行くのも1つだ。もし、踏ん切りがつかないなら、掛け持ちでもやってみたらいい。と、ずっと気にかけてくれました。

私はA先生を尊敬していたし、生徒からも評判が高く好かれていて、本当に素敵な方だったからこそ、その助言を受け入れることにしました。


そして2年目。
私は転機を迎えることに。学校を掛け持ちすることとなり、新しい世界(は言い過ぎかもしれないが、それくらい違った)を知ることになりました。

天国!!!!!!!
天使しかいない。この学校は楽園なの?!!!
私が生きている世界であってる?????

という気持ちで、週1.5日勤務でしたが、本当に環境に恵まれましたし、何より賃金が大幅に上昇しました。これはかなり大きかったです。

また、入学式や行事ごとに出勤・出席すればしっかりお給料は出ましたし、「非常勤の先生なんだから、そこまでやる必要はないのよ」と声を掛けてくれ、指定業務より必要な仕事量をこなしてしまった場合には、その分のお給料も頂戴しました。

そんな二重生活を1か月も続けりゃ、もう1校目なんかやってられないわけです。GW前には、ここを3月で去ると決意し、辞めることにしました。
私立学校は会社員と同じようなところもあるので、1学期で辞める先生、数か月で辞める先生もいました。
実際そうしようかと思いましたし、天国と地獄のはざまに居続けるのはしんどかったです。

でも、そうしなかったのは、生徒がかわいかったからです。
生徒は素直で良い子でしたし、何より私は教員として働くということ以外考えられなかったからです。

と、人に聞かれたら答えています。
それ以上は聞かれたくなかったですし、不要なアドバイスをもらいたくなかったから。

でも、本音は違います。(もちろん生徒がかわいいのは本当)
社会人になって就職したところを学期途中で辞めていいのか?
学期途中から就職できるのか?
履歴書に穴があいたら、教員として勤務が続けられるのか?
ここで辞めたら、これから生活できるのか?

見事に自分のことばかりです。
ここまで自分のことを大切にする人間なので、図太く生きれるじゃんと思ってください。

結果として、3月まで続けたわけですが…
それが良かったのかと言われれば疑問です。

自己肯定感は死界より低い

ここからがタイトル通りの話です。

私はポジティブ人間ではありますが、今勤務しているところで自己肯定感が低い・自己評価が低すぎる。とお言葉を頂戴したことが多々あります。

大体このようなバックボーンを話すと、そんな労働環境に居たら、自分の存在価値さえ分からなくなりそうだね、ここで自信もって働こうね!と、私の過去も含めて受け入れてもらえて、ホッとします。

しかし、その自己肯定感の低さは2年間で植え付けられたものなので、簡単に払拭できるものではないのです。ただ、その自信のなさを、授業や生徒の前では絶対見せてはいけないですしね。

言葉にするのは難しいのですが、生徒の前では偽りの自分。
不安やマイナス要素は一切見せない。
演技者のように、自分が自分でないような状態を作り続ける。

でも、それも気持ちと自分本体の感情が全て合致しないからしんどいのです。
だんだん、何が本当の自分かわからなくて、大袈裟かもしれませんが、ずっと嘘をつき続けている状況で、心が重たい…という表現がぴったりかもしれません。

側から見たら、そんなに悲観的になるな、自分を下に見るなって話だと思うんですよね。
多分、私もこういう経験してなかったら思うんです。
そんな卑屈になってどうする。自分に価値見出せよって。

自己肯定感って、自分である程度高められたとて、結局は他人の評価が大いに関係しているので、簡単には高まらないんです。

でも、私は、今のままでいいと思っていない。

私を評価してくれている方々への敬意

私が私自身を低く見るのは、謙虚とは違う。
SNSで活動を始めてから、私の存在がこのネット上で数千人の目には留まっていて、さらに、私のやることを応援してくださる方々がいます。

自己肯定感が低すぎるのは、私を応援してくださっている方々へも失礼なのではないかと思うのです。
私なんか、私なんて、私のような者に…というのは簡単なんです。
だって私の気持ちが楽になるから。

でも、そんな人を誰が応援しつづけたいか? 
一緒に頑張ろうと思えるか?

そのように考えた時、私は人に応援されるために、このSNS活動をはじめたわけではありませんが、応援してくださっている方々に対して、敬意を欠くようなことをしたくないと思いました。

私は、今まで自分を低く見ることは、当然のことで、自分に対して高い評価をしてはいけない、自分にはその価値がないと信じていました。

しかし、このSNS活動を通じて、応援してくださっている方々がいるだけでなく、自己肯定感についても考えさせてくださる機会を得たことは、これからの人生において、素晴らしい出来事でした。

今回このnoteを書こうと思ったのも、それが理由でした。
自己満で始めた動画投稿が、私の人生観を変えてくれることになるなんて、どこでどんな出会いが待っているのか分からないなと、改めて思いました。

だから、私と出会ってくれて、応援してくださっている皆様には感謝してもしきれません。
本当にありがとうございます。

自己肯定感が死界くらいだった私は、少しずつ浮上できていると思います。
ただ、それが過信やおかしな方向に向かったときには、叱ってください。

これからも末長くどうぞよろしくお願いします。

もちこ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?