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繊細さんの喜怒哀楽の話

こんにちは、HSP主婦のもちふわです。
今日は「繊細さんの喜怒哀楽」について考えてみました。
敏感気質で40年以上生きてきて、最近までとてつもなく生きるのが大変でした。
そこから脱却できたキーワードは『生き抜いてきた自分に感謝すること』です。
繊細さんとはありますが、私自身の経験と考えです。
同じような境遇の方の参考になればと思い書いてみました。シングルマザーとかDV教師とか個人的な事情にも触れていますので、苦手な方はスルーしてください。とはいえ現在は元気いっぱいですのでご安心ください😃

下にまとめてみましたのでご覧ください。

繊細さんの喜怒哀楽の話@もちふわ

1.喜怒哀楽の「怒」と「哀」が気になる理由


私は怒っている人を見ただけて「自分のせいじゃないか」と思ったり、悲しんでいる人を見ると「なんとかしてあげなきゃ」と感じたりしてしまいます。
胸が重くなり何とも暗い気持ちになり、その日ずっと気持ちが引きずられてブルーになることもあります。
周りに聞いてみると「確かに嫌な気持ちにはなるけど、関係ない人だし切り替えてる」という意見も。私も同じように切り替え上手になりたいなと常日頃から思っていました。

なぜそこまで周りのネガティブ反応を気にしてしまうのかというと、自分の人生を振り返ってみるとやはり「生まれもった敏感な気質」と「育った環境」にありそうです。

私は光や音や匂い強いものにとても弱く、ざわざわとした人の話し声や突発的な音を聞くと体が縮こまり、香水や芳香剤のようなきつい匂いに気分が悪くなってしまいます。深夜の物音にも敏感で、夜中目が覚めてしまうこともあります。

「気にしなければ気にならないはず。過敏症は努力すれば変えられる!」と気合でなんとかしようとしたこともありましたが、効果は全くなくかえってストレスが溜まるだけでした。

そんな繊細さんな自分ですが、なんとか資本主義社会と競争社会に適応しようとずっと頑張り続けた結果、逆に自律神経がおかしくなり、めまいや下痢、不眠症など加齢とともに様々な不定愁訴を抱えることになりました。

物理的な環境だけにとどまらず、HSPだと特に他人の「感情」には敏感になってしまします。私にとって今まで他人は「敵なのか味方なのか分からない怖い存在」であって、まるで自分の生死を握られているようにとらえられしまうからなのでは、と感じました。

外敵から身を守ろうと敏感センサーは常にフル稼働です。『他人が居る=自分への脅威かもしれない=脅威なら何とかしなければならない=周りの一挙一動が気になる=常に敏感センサーが起動し疲れる』という図式になるんじゃないかと思いました。

なので喜怒哀楽のうち、怒りと哀しみは特に敏感センサーを最優先して起動する対象となるのでとても気になる、ということかと思っています。

2.HSPな私がとっていた3つの生存戦略


敏感な気質を持った私は小さな頃から家庭で安心するということがありませんでした。というのも私はシングルマザーの家庭(祖父母とは近居)で育ち、さらに親の教育方針が自分の求めるものとはズレていて、親自身も昭和の古い価値観の中で育ち余裕というものがなく、自分のことで精いっぱいだったからだと思います。
安心感のない家庭でこどもの私が選んできた生存戦略は次のようなものでした。

人を頼ってはいけない
「お母さんは仕事で忙しいから絶対迷惑をかけてはいけない。自分で何とかしなくてはならない」

人は信じられない。自分の気持ちは伝えても意味がない。嫌なことは耐えるべし

私は厳しいピアノ教師(ほぼ虐待。親の見ていないところで暴言、無視、叩く、泣いていても怒声)の元に3歳から12歳まで通わされていました。小さいながらも怖いから嫌だ、叩かれるから嫌だと親に話しても「さぼりたいから嘘をついている」の一点張りでやめさせてもらえませんでした。12歳で開放されたのも「もっといい先生に習わせたいから」と親のエゴ。親は良かれと思ったらしいですが嫌々やっているためピアノは全く上手くならず、高校受験でやっと開放されて終わり。
子供心に学んだのは、
「大人は私を叩く、怒鳴る、怖い思いをさせる。自分の気持ちは伝えても信じてもらえないので無駄。嫌なことは我慢するしかない」ということでした。

シングルマザーでピアノに通わせてもらえる環境だったということは親はとても頑張ってくれたと思います。だだ親の「良い」は子どもの「良い」にはならなかったのと、残念ながら教師に恵まれなかったのが悲劇だったと思います。

そしてさらに親が子どものSOSに気づかなかったのが残念でなりません。

私はこのままでは認めてもらえない。努力して人より上にならねばならない。私はひとりぼっち

母は私に「お父さんと絶対結婚したくなかったのに親に無理矢理見合い結婚させられた。結婚式に高熱を出したのに両親から破談にするのを許してもらえなかった」と言いました。
事実なのでしょうがさすがに子どもにこの内容はきつかったです。嫌いな父から産まれた私は何なんだと。

両親は程なく離婚。生身の父の記憶はありません。養育費もなく、今まで一度も会ったこともありませんし、手紙も何もありません。子どもながらにも父には自分は愛されていないんだなと思いました。
そして私は以下のような信念を生みました。
「お母さんはお父さんが嫌いだから離婚したようだ。父も私に全く関心がない。嫌いな父から生まれた私も価値がないし愛されない。なので私はお母さんの言うことを聞いて、人一倍努力して褒められるような優れたいい子にならなくてはならない

他にもいろいろとエピソードはありますがざっくり言うとこのような感じです。家庭での安心感は皆無です。私自身が私を「いらない子だ」と認識しているからです。

親もまた祖父に厳しく育てられていたようで、また母は実家に帰ったというのもあって、私から見て私の親というのは精神的には親になりきれていない親だったんじゃないかと思います。
親もとても苦しかったと思います。意に沿わない人生を歩まされていたようなものです。

ただシングルマザーとして一生懸命働いて私を育ててくれたことはとても感謝しています。私が同じように母のように頑張れと言われても難しいかもしれません。ピアノを習わせたのも親が習いたかったから、というよくある理由からでした。よい教師に巡り会えば違ったかと思いますが、教師がDVだったので完全に裏目に出てしまったのは悲しいところでした。

そしてその教師もきっとDVで育てられていたんだろうなとは思います。風の便りで最終的には生徒がいなくなったそうで(そりゃそうです)どこかの宗教に走ってしまったとか。彼女もまた苦しい人生を生きていたんだと思います。

当時から親がよく話していたのは「友達みたいな親子になりたい」でした。
とはいえ、人の悪口や愚痴を娘にお構いなしに言ってましたし、仕事の添削を高校生の娘にやらせたりと、それはちょっと違うんじゃないかなと子ども心に思っていました。愚痴吐き友達と依存友達はこちらとしてはご遠慮したいんだけど、と思っていました。

「友達みたいな親子」ってちょっと間違えると危険な親子関係になってしまうのではないかと思います。子どもが親を信用できなくなるというか頼りないので家庭的安心感が育たないというか。

ということで親分析をしてみましたが、今はやっと親を理解できるようになり、感謝と思いやりが持てるようになったのは自分の成長だと思います。

そもそも完璧な親もいないし、色々な家庭事情があるので、多かれ少なかれ誰しも親への不満やトラウマみたいなものはあるのではないかと思います。

父にしてもきっと家族を気にする余裕がないほど自分自身に苦しんでいたのかも知れないし、それなりの事情があったのだと思います。

トラウマを羅列すると恨みつらみにもなりそうですが、楽しい思い出や良かったこともあるわけなので(少なくとも父の介護問題を気にする必要がない)プラスマイナス含めてこれが人間なんだということだと思います。

親と分かり合いたいとずっと思っていましたが、そもそも人間はひとりひとり違うので、お互い分かり合うことは幻想なのかもしれないなと思います。お互いの違いを学び、理解する。そこが重要なのかと思います。

3.完璧主義、高すぎる理想、褒められたい、人に勝ちたいが自分自身を苦しめる

HSPと安心できない幼少期~青年期を送ってきた自分自身が幼いながらも考えて得てしまった戦略は、ずっと自分を苦しめるものでした。

完璧主義や高すぎる理想は自分が本当に何をやりたいのか考えることをできなくさせます基準は常に自分ではなく「社会」や「周囲の目」。世の中的に「良し」とされることばかりを目指し、自分自身の本来の力や興味を無視させてしまいました。

たとえば一般的な将来の職業選択として「医師、弁護士にになって世の中のためになる」「薬剤師、看護士になったら安泰だからなる」などありますが、その通り努力してなれればいいですが、自分が興味もないし適性もないのに社会的に良しとされる職業だから目指そうとすることは、自分にとっての苦痛でしかなく、逆に目指す山が高いほど努力もできなくなります。

自分のその力も興味もないのに高い山を目指し続けても、達成することはほとんどないわけですから、目標に到達できない自分をずっと責め続けることになります。

考え方として基準を自分以外の他人や社会に置いている限り、ずっと自分を苦しめるという構図です。

4.苦しかったのは自分で自分を認めていなかったから


親からも自立し、大人になってもずっと苦しかったのは自分で自分を認めていなかったからでした。
私は以前フルタイムで仕事をしていたのですが、体調を崩して辞めたときに自分を責め続けました。
「周りのお母さんたちはずっとフルで働いで、家事も育児もこなして頑張っているのに、なんで私は働けないんだ」と自分を責めました。

それは幼少期から持ち続けた完璧主義へのこだわりであり、言うなれば小さな頃に人に振り向いてもらおうとして頑張ってきた自分で、寂しさと不安を埋めるために自分が作り上げた信念でした。

頑張らなければ愛されない、努力しなければ認められない
だからフルで働けなかったら私は私でいてはいけない。
私がここに存在していることをわかってもらえない。
ねじ曲がった信念を手放すことができなかったわけです。

5.グレートマザーとインナーチャイルド:今までの自分に感謝すると、生きやすくなった


いろんな本を読むと、人には小さなころの痛みを抱えた自分「インナーチャイルド」が居て、自分が自分の親「グレートマザー」になることで自分を癒せるそうです。

私の中で一人で頑張り続けてきたインナーチャイルドを思った時、私はとてもその子を愛おしくなりました。いつも泣いていて頑張って生きようとする小さな子どもを自分の中に見つけた時に、「なんてけなげな存在で、必死に生きようと頑張っているんだろう」と愛に溢れる気持ちになりました。

自分の中で必死に頑張ろうとしている小さな子どもにかけてあげた言葉は次のものです。

よく一人で頑張ってきたね。もう大丈夫だよ。
もう一人じゃないよ、私がいつでもそばにいるよ。
怒りも苦しみも悲しみも、すべての感情はそのまま感じていいんだよ。
どれも大切な私だよ。どんなこともどんな感情も受け止めるよ。
だからもう安心していいよ。

そう自分に語りかけられるようになった時、今までにない安心感が生まれました。

6.自分に感謝できるようになったら、周囲への感謝も芽生えてゆく。周りは敵ではなく味方。当たり前に感謝を。


世の中の理想通りに行かなくても、自分の理想通りに行かなくでも、目標到達できなくても、それはそれで大丈夫。

何を成したかじゃなくて、どう生きたかが大事。
間違ってもいいじゃない。やり直せばいい。
自分、生きていてくれてありがとう。
今日も朝起きれたし、自分の記憶がちゃんとある、自分の身体に感謝しよう。

ご飯おいしいな。お米農家さん、精米所の皆さん、物流のみなさん、スーパーの皆さんありがとう。

完璧主義や自責思考を手放してみると、普段何気なく行っている日常に感謝することができます
夜寝て朝起きることって普通だと思っていますが、もし朝起きて記憶がなくなってしまったら自分を認識できないわけですし、覚えているだけでもすごいことですよね。そう思うと自分の身体に感謝することができます。

毎日食べるご飯だって自分ひとりでは手に入らないものですし、生産者さん物流の皆さん、販売の皆さん、炊飯器を作ってくれる会社の皆さんなどなど、数限りない人々や物のありがたさをかみしめられるわけです。

生き残るために敵は排除と頑張っていた敏感センサーは日常では必要ないもので、毎日を生きられることは日常を作り出してくれる社会に感謝することです。むしろ周りは敵というより味方だったのです。

7.これからは喜びと楽しみを見つけていく。人間関係も0からのスタート


怒りや哀しみにとらわれて自分自身が何が好きなのか、何をしたいのかを深く考えることがあまりなかった私自身ですが、これからは喜びと楽しみにフォーカスして行こうと思います。

身体は40代ですが、私のインナーチャイルドは0歳で産まれたばかりなので自分で育てなければなりません
苦しいこだわりがあったため今まで人間関係もすったもんだでしたので、これから0からのスタートだと思っています。

友人も本当に少ないですが、中身が0歳なので仕方ありません(笑)
ここからの仕切り直しだと思っています。むしろ0歳児に付き合ってくれて残ってくれた友人は本当に心の広い人たちだと思って大切にしたいと思っています。

自分の心の中にいる頑張ってきた自分と一緒に、これからは自分の好きなもの、心地よいもの、楽しいこと、ワクワクすることをどんどん見つけてチャレンジして行こう思います。

ここまで読んでくださりありがとうございました。
私の体験談が参考になれば幸いです。
生きるのが苦しい方の助けに少しでもなれば、これ以上の幸せはありません😊

読んでくださったみなさまを含め、今まで私の人生に少しでも関わって下さった皆さんに感謝を送ります。
山あり谷ありありましたが、学びある人生をありがとうございます。
この世に得た生を大切にして、自分なりに楽しく生きていきたいと思います🌈
それではまた次回にお会いしましょう!

written by もちふわ


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