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ことばの不確かさに住む彼女

彼女は、ある品詞への愛を叫び続けている。

同じ学生寮に住む、別の研究科の博士課程生である彼女は、言語学として日本語を研究している。

日本語が堪能であるはずの日本人が、日本語を”研究”する。
研究分野が全く違う私は、そんな世界があることなど、彼女に出会うまでは知らなかった。

彼女曰く、言語学界隈では、留学生に向けての日本語教育に関する研究が主流らしい。
けれど、彼女の興味は日本語”教育”よりかは、日本語という”言語”そのもの。
ある品詞(助詞とか、形容詞とか)について熱く語る彼女は、どうやら言語学界隈の中であっても、珍しいようだ。

「あさぎちゃん!この文章に続くものとして、1から4のうち、どれが自然に思う?」

彼女はまれに、こうやってクイズを出してくる。
日本人にも留学生にも、こうやってクイズを出して、その回答の違いを分析しているのだと言う。

「うーーーん、1はナシかな。3が一番しっくりくるけど、でも2もわからなくもないし、4もまあ、合ってるっちゃ合ってる気が……」

このクイズは、難しい。
バチっと正解がわかるものもあれば、こうやって考え込んでしまうものも多い。

こうして悩みながら答えていると、どうして自分が普段、何も考えずに日本語を話せているのか、そしてそれが当然のように相手に伝わっているのか、わからなくなってくる。
もしかして、実はみんな誰も意思疎通とれていないんじゃないか、と、疑心暗鬼にすらなる。

「当然」「当たり前」そう思って過ごしてきた物事が、いかに感覚的で、不確かさなものかを思い知らされる。

「だめだー!難しい!」

嘆く私に、彼女は笑いかける。

「これね、実は日本人ほど、回答がわかれるんだよ」
「えっ、そうなの?」
「うん。留学生とか、日本語ネイティブじゃない人ほど、法則にのっとって判断するから。回答自体も、そう答えた理由も、はっきり『こうだ』って言うんだよ」

不思議だなあ、と、興味深く思う。

成長の過程で自然に身についていった言葉と、一生懸命勉強して身につけた言葉。
同じ言葉・言語であっても、両者の違いは、かなり根深いらしい。

私の恋人の名言に、「日常会話は乱数」というものがある。
目下の話題に対して、ある程度候補を絞って返答をパターン化し、どの返答を選ぶかは適当に(ランダムに)決めている。それでだいたいなんとかなるのだという。

脊髄反射の”共感”のもと、そこそこ適切な返答が自然に出てくる私とは異なり、彼は”理解”はできても、他者への”共感”が苦手。だから、会話が不得意だったそう。周囲をよく観察し、考え、実践していくうちに、「乱数」という境地に至ったそうだ。

思い返すと、しばしば、彼から明後日の方向の返しがくることがある。
全然よくない状況なのに「いいなー」とか、普通聞き返すだろうというところなのに「へー」で終わったりだとか。

こういうときは、だいたい頭の片隅で別の考え事をしているか、疲れているときか、話の内容が興味ないときなのだけれど、見ているとそれでも会話としては案外なんとかなってしまう。

「日常会話は乱数」
この考え方は、少なくとも会話の得意でない彼の友人たちの間では、重宝されているようだ。

相手に通じる領域・会話の成り立つ領域は、結構広い。ランダムに返答しているだけで意外となんとかなっている人がいるくらいには、広い。

そのくせ、通じない時は全然通じない。投げたボールは、あっさり届くときは届くし、届かないときはびっくりするほど、届かない。

それがなんでなのか、わからない。
届くときと届かないとき、届くけどいまいちしっくりこないとき。どこからどこまでが”届く”領域なのか、よくわからない。なんで相手の言っていることが理解できるのか、ズレていると感じるのか、表面的にはわかっても根っこの部分ではよくわからない。

こうやって、不思議だなあ、おもしろいなあ、と思うのは、彼女がこんな視点を与えてくれたから。

研究、頑張って欲しいなあ。


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