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問いをたてることの難しさ ーー理想を前に立ちすくむなかれ

問いーー明確で考えるに値すべき問いである「リサーチ・クエスチョン」をたてることの難しさを、昨日、記した。

大学院生の中には、この問いをたてる難しさの前にして、どうしたらいいのだろうと考え込んでしまう人も多いかもしれない。目下の私もそうだ。

以下、こんな問いをたてる難しさの中で、どうやって自分の研究をスタートすればいいのか、これまでの大学院生活(経済学・修士2年+博士2年間)で考えたことを記します。
あくまで私の中での結論なので、限定的な話かもしれません。「えーちがうよ!」なんて思ったら、お気軽にコメントなりTwitterのリプライなりDMなりとばしてくださいませ。

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高すぎる理想を、”当たり前にこなすべきこと”だと思っていた

私の一番の反省は、高すぎる理想を、当然こなしてしかるべきものだと思っていたことにある。

問いをたてる難しさに直面し、リサーチ・クエスチョンの案を捻り出しては、”理想”と比較して、ここがだめだ、あれが足りない、と潰してきた。

私の”理想”は、完璧なリサーチ・クエスチョンと、流れるように美しいイントロダクションだった。

学術論文のイントロダクションは、だいたいこのような流れで書かれている。

・問題提起
 →「こんな問題がありますよ」「そしてこの問題は、こんなに大事なんですよ」
・先行研究への批判
 →「これに取り組んだものはすでにありますが、でもこの点で先行研究は不十分です」
・自分のリサーチ・クエスチョン
 →「だから、私はこの点を考慮して、この問題を分析したいのです」
・自分のアイデアや仮説
 →「こうすれば、こんな結果になるはずなのです」
・自分の研究の貢献、意義
 →「私の研究をすると、こんな嬉しいことがあります」「私の研究は、こんなことに貢献があります」

私は、このイントロダクションがすべて完璧にできてから、分析をはじめるものだと思っていた
自分が重要だと思う問題を見つけ、それに答えている先行研究があればそれを的確に批判し、その先行研究の批判を解決するアイデアと仮説をもってリサーチ・クエスチョンをたて、自らの貢献を主張する。ーーこのすべてが完璧になってから、分析をはじめるものだとばかり思っていた。


結果、私は綺麗な流れのイントロダクションと、完璧で多くの人が大事だと思うようなリサーチ・クエスチョンを求めた。
それが普通で、みんなそれが当たり前に(いろいろなツッコミどころはあったとしても、わりと)できていると思った。仮に完璧ではなくとも、イントロダクションの流れは綺麗だった。

少し前までは、これは”理想”なんじゃなくて、”当たり前のこと”だと思っていた。だから、余計、研究をはじめることができなかった。綺麗なイントロダクションもリサーチ・クエスチョンも描けなかったから。

綺麗で完璧なものは、なかなかできない。なかなかできないので、研究をスタートすることができない。博士課程の2年目になってもそんな状況で、ものすごく焦っていた。

が、それはどうやら”当たり前のこと”ではなかったらしい。
それだけ綺麗なイントロダクションと完璧なリサーチ・クエスチョンがあれば、(もちろんその後の分析結果にもよるけれど)冷静に考えれば、世界的なトップ・ジャーナルに載るようなレベルの論文と言ってもおかしくない。
経済学の世界で言えば五大誌、理系で言えばNatureクラスの論文を、何も始める前から狙っているようなものだ。それは、ちょっと、あかんよね。

じゃあ、綺麗なイントロダクションを持つ”みんな”はどうしていたのか。
「とりあえず」でできそうなことや思いついたことから始めていたのだった。

「とりあえず」でも、いろいろやってみる

上記のように、「なかなか研究をはじめられない」「リサーチ・クエスチョンが思い浮かばない」と嘆く私を見かねて、先輩が言った。

「みんなの綺麗に見えるイントロダクションは、後付けだったりするんだよ」

おまけに指導教官も、こんなことを言った。

「まずはいろんなことに疑問を持って、いろいろやってみることが大事なんだよ」

「綺麗なイントロダクションができてから分析をはじめる」は、確かに理想だ。
完璧なリサーチ・クエスチョンをたててから取り組む研究は、ブレがなく、評価も高いだろう。

けれど、「それらが揃うまで何もできない」は、違う
ああじゃないか、こうじゃないか、なんて勝手に疑問や想像を膨らませて、「とりあえず」でもいいから、ちょっと手を動かしてやってみる。

そうして、「とりあえず」でいろいろやってみた先で、確固たるリサーチ・クエスチョンにつながっているかもしれないし、「あちゃー、だめだ」につながっているかもしれない。
案を潰すのは、やってみたあとで、どうにもこうにもならないと思ってからでも遅くない。仮に「だめだ」な結果でも、何もしていない時より、ずっとずっと勉強になる。(結構落ち込むけれど、ね)

大事なのは、理想と現実のバランス

理想を抱きつつ、それでも「とりあえず」でやってみる。
「とりあえず」なんだけど、ある程度考えた上でやってみる。確固たるものでなくていいから、ぼんやりとしたリサーチ・クエスチョン、「なんでこうなっているんだろう」や「こうなんじゃないかな」を持ってやる。

難しいけれど、大事なのは、”理想”と、とりあえずやってみるという現実のバランスだ。
理想のもとに考え込み過ぎても進めないし、考えなしにやみくもにやってもあんまり意味がない。
ぼんやりとでいいから考えの種を持って、実際にやってみながら、考えの種を育てていく。そんなイメージを私は持っている。その種がどれだけ立派な花となりうるかは、種を持つときはあまり気にしないことにしている。

まとめ:問いをたてる難しさを前にしても、とにかくいろいろやってみよう

問いをたてる難しさに触れ、試行錯誤した結果、「試行錯誤する」という結論に至ってしまった。

明確で考えるに値するような問いをたてることは、本当に難しい。
”理想”とはかけ離れた自分の姿を見て、立ちすくんでしまう。あれもだめだ、これもだめだ、で最後に残るのは、途方もない劣等感と焦り。そうして、立ちすくんだまま、歩くことができなくなってしまう。

”理想”は大事だ。
でもその理想を描いて、立ちすくんでしまうくらいなら、一旦胸の奥にしまって、「とりあえず」で進んでみよう。いろんなことをやってみよう。「こうなんじゃないかなー」くらいの軽いリサーチ・クエスチョンを持って、進んでみよう。
立ちすくんで考え込むなら、進んだ先で見えるものを見てから考えるのでも、きっと遅くはない。私はそう思っている。

実際問題、「とりあえず」でちょっと進むにしても、分野によって研究対象によって、気楽にやってみることができないところもあるのだと思います。金銭的・労力的コストが大きくかかる、といったことも人によってはあるのでしょう。そう言った場合でも、そのコスト部分の兼ね合いも考慮しつつ、やれる範囲で「いろいろやってやろう」という気持ちでいるといいのではないかな、と思っています。


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