マリーゴールドと僕の不登校
あいみょんのマリーゴールド。
言わずと知れた大ヒットソングなので、ご存知の方が多いと思います。
僕はあいみょんが大好きで、マリーゴールドも好きな曲の一つです。
このマリーゴールドの1番の歌詞に、
でんぐり返しの日々 可哀想なふりをして
だらけてみたけど 希望の光は
目の前でずっと輝いている 幸せだ
という歌詞があります。
皆さんはきっと「麦わらのぉ〜」のイメージが強いかと思います。
僕が挙げたこの部分に注目する人は少ないでしょう。
でも、僕はこの歌詞を見て、聴いて、ふと思いました。
「これって僕が学校に行けなかった時の気持ちだ」と。
きっとあいみょんにそんな意図は無いだろうし、
僕と同じ捉え方をする人もいないと思います。
ですが僕には、これがあの時の、中学生の頃のリアルな感情が呼び起こされるような歌詞にしか感じられなかったのです。
1つずつ僕の解釈を説明していきます。
まず「でんぐり返しの日々」は僕に当てはめると不登校の日々のことになります。
「可哀想なふりをして だらけてみた」はまさに当時の僕です。
確かにあの頃は本当にしんどかった。
ですがそれと同時に、あの時の僕は心の底から自分が「可哀想」だと思っていました。
もはや世界で1番自分が可哀想だ、くらいに思っていました。
そうやって思い込んで「希望の光」を見えないようにしていました。
けれど、その「希望の光」はもうウザいくらいに目の前にあり続けました。
それを当時はまだ「幸せだ」とは思えませんでした。
その時の僕にとって「希望」とは、まだ眩しくて直視できないものでした。
むしろ「そんなとこで光っていつまでも照らさないでくれ」
「僕は日陰にいたいんだよ」と言いたくなるような、そんな存在でした。
「希望」なんてウザったかったのです。
それでも「目の前でずっと輝いて」いた「希望の光」を、その存在があることを
「幸せだ」と思えるようになったのは、つい最近のことです。
今生きるのがしんどい、生きづらいと思って苦しんでいる人たちは、
きっと「希望が抱けない」のではなく
「希望」の存在が憎らしい、ウザったいと思ってしまうような状況にあるのではないでしょうか。
という1つの仮説を以って、稿を閉じさせていただきます。
それではまた。
小野トロ
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