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いま40代のわたしが20代のときに出会ったもの (1)

もし人生で一番よかった決断は何かと聞かれたら、何と答えるだろう。誰に問われたわけでもないのに、ときどき自分自身に聞いてみたくなる。

人生ではたとえ間違った決断をしても、その後の頑張りで「良かったこと」にしてしまうことができる、と知ったのは30代に入ってからだ。万事塞翁が馬とでもいおうか。でもいちばんいいのは、最初から最後まで「あの決断は自分にとって本当に良かった」と思えることだ。不遇といわれる氷河期世代であったとしても、人生でキラリと輝ける出来事が、20代にひとつ、ふたつくらいあってもいい。わたしにとってのキラリは20代半ばに異国で過ごした一年半だ。

◇◇◇


2000年3月の連休に母とふたりで台湾に行った。はじめて訪れた台湾は、冬の終わりだというのに、妙にむうっとした空気が流れている。

その熱気が暑さのせいだけではないと知ったのは、土産物屋の店員とのおしゃべりだった。女性店員は、今度初めての総統選挙があるというので「民主、民主」と誇らしげに語っていた。そう、まもなく台湾で歴史上二回目の総統直接選挙が予定されているのだ。人びとが選挙で盛り上がっている様相が、街のあちこちで感じられた。

社会人になってから、わたしは旅行先で現地の大学を訪れるのが好きだった。キャンパスにあふれている自由とアカデミックな雰囲気。だからこの台湾旅行の最終日にも、母をホテルにおいたまま、台北市内の台湾大学に一人でふらりと訪れた。開通してまもないMRTに乗って、公館(GONG-GUAN)という駅で降りる。羅斯福路(LUO-SI-FU-LU)を横切り、大学の正門をくぐると校内の大通り沿いに、椰子の木が並んでいて、ゆっさゆっさと音をたてていた。ハワイを彷彿させる景色だ。リュックと眼鏡姿の学生たちが、早足で歩いていく。

台湾大学大学院

キャンパス内の建物はコンクリートだけでなく赤煉瓦作りが多い。台湾大学は日本統治時代に建てられた、旧帝国大学のひとつだ。どうりで、東京大学と雰囲気が似ている。

ああ〜、こんなところで勉強できたらいいな。

そんなことを思いながら、アドミッション・オフィスの看板を探してみた。ウロウロしていると目の前を欧米からの留学生が通った。男性に英語で道を聞いてみる。するとーーー返ってきたのは中国語。思いがけない外国語に不意打ちを喰らった。こちらが戸惑っていると、男性は通りがかりの台湾人学生に、助けを求めた。どうやら、自分はカナダ人で英語は分からない、と言っていたらしい。英語は世界の共通語と思い込んでいたことにハッとした。と同時に、容姿と話す言葉のイメージのギャップにすっかり魅了されてしまった。

なんとか教えてもらった目的の場所に着き、留学案内が欲しいと頼んだ。すると、一冊のパンフレットを渡された。外国人向けの中国語の語学留学案内。(のちに台湾大学には外国人向けの語学研修所が2箇所あって、そのうちの授業料が高額な方のプログラムを手渡されていた、と知った)

帰りの飛行機のなかで、パンフレットを熟読し、日本の空港に降り立った時には、「台湾へ行こう」とすでに心を決めていた。

◇◇◇

当時わたしには友人から押しつけられた旧式パソコンが一台あった。やっとAOLというプロバイダーとの契約にこぎつけ、はじめて海外に電子メールを送る。ダイヤル回線はギーコギーコいいながら、わたしをはじめてのネットという”世界”へいざなう。今の40代が20代の時期というのは、まだまだアナログの時代だったのだ。

ずんぐりとした、パーソナルコンピュータを駆使して、語学研修所に問い合わせてみた。一万ドル以上の学費があまりに高いと思ったからだ。(当時のレートで約110万)本当にこの学費なのかを再確認すると、その通りだという。さて、学費をどう工面しよう。もっと安いところにしようか。不思議なことに、台湾に行こう、という決心はまったく揺らがなかった。

入所の申請に必要なものは、推薦文二通と志望理由書。昼食の休憩時間、社員食堂の隅っこで志望理由に頭をひねった。とりあえず、将来は大学に行って国際的な仕事をしたい、というようなことを書いたと思う。

推薦文は、短大時代の中国語の先生と学長が、自ら書いてくれることになった。後日銀行へ行って、生まれて初めて申込金の数十ドルをそれと同じ金額の手数料を支払って、手続きした。2000年4月のことだ。

わたしは短大時代の二年間、選択科目として中国語を受講していた。卒業旅行も北京・上海に連れて行ってもらった。ただ、中国語の発音が苦手で、まったく話せなかった。当時は中国経済が台頭してくるだろうということは、巷では言われていたけれど、実際に留学までして、中国語を習得したという人の話はあまり聞いたことがない。しかも中国本土でなく、台湾だ。

留学前までに、基本だけでも勉強していこうと考えた。日常会話くらいはできないといけない。そこで「中国語家庭教師募集」のチラシを手書きで作り、近くの大学に掲示した。一週間ほどで、台湾人の学生が二人応募してきた。学生らは優秀だったが、BOPOMOFO(ぼぽもふぉ)という台湾独特の発音記号を使って教えられてしまった。(日本語のあいうえお、みたいなもの)結果的に、留学生から習うというのはあまりうまくいかなかった。

結局、事前に準備したことといえば、中国語の映画や音楽に触れることだった。シンガポールに留学していた同僚から、李玟(CoCo Lee)のカセットテープを借りたり、岩波ホールで『宗家の三姉妹』や『玻璃之城』を見た。

数年後、表参道のラルフ・ローレンで、『玻璃之城』の主演女優、スーチー(舒淇)を見かけた。あなたの映画を見て台湾に行ったよとサインをもらった。

あのときのパワーや行動力は何だったんだろう。いろんなトリガーがあったと思う。確かなのは、自分にもチャンスをあげたかった、ということだ。
わたしのキラリ20代へのスタートはここからだった。

ーーつづく



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