「人生が楽しすぎる」は間違っていた
なんか人生楽しいんだよなあ、
楽しすぎるんよなあ
って、昔からわりとずっと思っていて。
特に社会人になってからは、強くそう思っている。
でも、誰かに「ももちゃんの人生は楽しそうだよね!」とか言われると(やたら色んな人に言われます)
「いやいやそんなことはないわ…!」
と素直に認められない何かがある。
もちろん、その場では「ありがとうめっちゃ嬉しい!」って返すけれどね。
なんでだろう?と考えていたら、過去のノートがなんとなく教えてくれた。
非常に烏滸がましい悩みなことはさておき。
そうだよ、これだ。
過程があるのよ。
人生楽勝なんかじゃなくて、辛いこととかしんどいこととか、たくさんあるよ。みんなそうだけど。
(と書いたが、記憶力が悪すぎて嫌なこと忘れてしまうからあんまり具体的なことは覚えてないのだけれど)
わたしは、誰がどう考えてもイージーモードなスペックではないし。いや、そもそも、イージーモードなスペックなんて存在しないか。とにかく、目を背けたくなるけれど、向き合わないといけなかったことなんて山ほど思いつく。
でも、色々とあるけれど、まるごとひっくるめて「楽しもう」とする工夫の研究は、人一倍やってきた自信がある。
そして、ありとあらゆること、なんでも真剣に取り組んできたという自信もある。
そんなわけで「人生楽しそうだよね!」というのは、「楽しい人生があらかじめ用意されている」というニュアンスを含んでいるように思えて、それがもやもやの原因だとわかった。
※だから言ってほしくないとかじゃなくてね
正しくは、
生きることを楽しんでるなあ
でした。
・生きることを楽しむ覚悟がある
・自分の人生を自分でいい方向に持っていく意思がある
・生きることが楽しくなるための創意と工夫の蓄積がある
もう少し具体的にするとこんな感じかな。
働くことや勉強すること、生きること、これらは「しんどい」と言われがちだけれど、それは確かにそうかもしれないけれど、でも、楽しむ余地のないほど貧しいものではないと、わたしは思う。
そういうしんどいものから逃げて、「楽しい」を求めて楽に行動したら人生楽しくなるかと言われたらそうではないのだろう。「逃げの姿勢」と「妥協」で進む人生は、世界に対して自分がひらけないはずだから。
と、また格好つけたことを書いてしまった
ノートに書いてあって自分でも改めてハッとさせられたが、わたしもまだまだ未熟。素晴らしい人を見て羨ましがる前に、その人の日々の工夫や努力してることを、見抜ける人でありたいね。
読んでくれてありがとう。
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