メロスは真の勇者か否か

太宰治の「走れメロス」、読んだことありますか?中学生の時、国語の授業で読んだという方も多いかもしれません。
読んだことがない方もいるかもしれないので一応あらすじを説明しておきます。

あらすじ


村の牧人であるメロスは妹の結婚式のためにシラクスの街に出かけます。以前とは打って変わってひっそりと静まり返っている街に違和感を感じたメロスは街の人に訳を尋ねます。すると一人の老爺が王・ディオニスが「人を信用できない」という理由で次々と人を殺めていると教えてくれました。それを聞いてメロスは激怒し、王城に乗り込みます。人を信じられない王に、信実を教えるためです。
しかし、メロスには気掛かりなことがありました。妹の結婚式です。そこでメロスは王に願い出て、妹の結婚式を挙げるために3日の猶予をもらいます。自分が村に帰ることを許してもらう代わりに親友であるセリヌンティウスを身代わりにして。
無事に妹の結婚式を挙げさせたメロスは、身代わりにした親友を救うためにシラクスの街へと急ぎます。故郷への未練、川の氾濫、山賊の出現など幾多の困難を乗り越えますが、疲労困憊のメロスはついにがくりと膝を折ってしまいます。あんなにも王に信実があるということを分からせるために燃えていたのに、「自分はこれほど頑張った」「セリヌンティウスを裏切るつもりは微塵もなかった」と言い訳を並べ、ついには「悪徳者として生き延びてやろうか」とさえ考えます。諦めの気持ちでいっぱいになった時、湧水の音で目が覚め、水を飲んだメロスは希望を取り戻します。
必死になって再び走り出すメロス。そこにセリヌンティウスの弟子・フィロストラトスが現れ、「もう間に合いません、走るのはやめてください」と言われますが、メロスは諦めず走り続け、日が沈みきる最後の瞬間に刑場へと辿り着き、親友を処刑から救うことができたのでした。その様子を見ていた王・ディオニスはメロスに対し「お前の願いは叶ったぞ。」と言い、「わしも二人の仲間にしてほしい」と願い出るというラストです。


真の勇者か否か

はあ、長かった。要約しましたが、「走れメロス」は教科書に載っている話としてはとても長いんですよね。本題に戻ります。

「走れメロス」の主人公・メロス。太宰の作品の大きな特徴でもありますが、この作品もメロスの「告白」のような形で言葉が並べられている部分があります。山賊を倒し、峠を駆け降りたメロスが力尽きて倒れる場面です。その部分で、「真の勇者」「正義の徒」という言葉が出てきますが、メロスは自分が言っているように、本当に「真の勇者」なのか、少し考えてみました。

以前の私は「メロスは真の勇者なわけない」と思っていました。理由は以下の通り。
・王の行動に怒る気持ちはわかるが、後先考えず王城に乗り込んでいった挙句、妹の結婚式があるからと言って、確認もせず親友を人質として差し出すのはいかがなものか?
・自分の事情で妹の結婚式を翌日に行おうとするなど、相手の都合を一切考えていない。
・結婚式後にゆっくり眠ったり、のんびり歩いたりするなど、「約束の時間に間に合わないと親友が処刑される」という危機感が薄い。


最近の考え

上に書いたような理由で、私は「メロスは間違いなく真の勇者ではない」と考えていました。しかし、最近になってもう一度作品を読み直してみると、メロスは絶対に真の勇者ではないと言い切れないのではないかと思うようになりました。理由は次のとおり。
・確かにメロスの行いに自分勝手さはあるが、メロスが行動を起こさなかったら王はより多くの人の命を奪っていたかもしれない。そう思うと、メロスは「王に対抗する」という行動を起こした時点で勇者なのではないか。
・事前に何も相談なく人質として引き出されたセリヌンティウスの気持ちは細かに書かれていないが、抵抗することなく人質になることを承諾したということは、メロスとの間に相当な信頼関係があったと考えられる。互いにこれほどまでに信頼し合えるということは、メロスは日頃から信頼できる行動・発言をする人であるということではないか。
・自分から王城に乗り込み、処刑されるという運命を選んだのかもしれないが、やはり人間。死ぬのは怖い。それでも故郷への未練を断ち切り、氾濫している川を泳いでわたり、山賊を打ち倒し、十里の道を走り続けたメロスは自分の信念を何としてでも貫こうという強い意志をもっていると考える。
・様々な困難を乗り越え、体力も気力も限界のところに現れた弟子のフィロストラトスに「もう間に合わない」「走るのをやめてください」と言われても、決して流されず最後まで死力を尽くして走った。
・人間、生きていれば様々なことが起きる。一度自分で言ったことを貫き通すことができなかったり、考え方が180度変わったりすることもあるかもしれない。綺麗事を並べ、「ザ・ヒーロー」という描き方をするのではなく、迷ったり諦めたり人のせいにしたりする人間的な部分があるからこそ、「真の」勇者なのではないか。つまり「真の」というのは「本当の」といういいではなく、「リアリティのある」という意味が含まれているのかもしれない。

以上の点から最近の私は「もしかしたらメロスは勇者なのかもしれない…」と考えるようになりました。
文学的な分析でも何でもなく、私に単純な感想を書いただけですが、同じ作品を期間をあけて読むと新しい発見があったり感じ方が変わったりして面白いですね。

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