061.フランス語学習

私のフランス語の恩師は、兵役免除のために外国でフランス語を教えることを選んだフランス人の男性でした。

1983年当時、フランスには徴兵制度があり、若い男子全員は1年近い兵役を義務付けられていました。ただし外国でフランス語を教えるなど、いくつかの条件を満たせば兵役が免除されたため、私の恩師は合気道留学を兼ねて、日本でフランス語を教えていました。

第二次世界大戦以来続いていたフランスの徴兵制度は、二十年ほど前までに段階的に廃止されたようでしたが、2018年に再び徴兵制度に似た制度が発足するという報道がありました。

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私が大学を卒業して新卒で入った会社は憧れていた会社のひとつでしたが、実際に入社してみると、女性社員には将来展望が開けない露骨な男女差別の社風に少しずつやる気が削がれていき、23歳にしてようやく自分の人生を見つめ直そうと思いました(054.会社の男女差別)。

子どもの頃からやりたかったことはなんだろうか、これからの人生で何をしたいのだろうかと考えました。そして出た結論が「フランスに行こう」でした。私は小学生の頃からフランスに憧れ、フランスへ行きたいと思い続けていました(025.モンサンミッシェル)。

東京でフランス語教育といえば、昔から御茶ノ水のアテネ・フランセか、飯田橋の日仏学院(現・アンスティテュ・フランセ)が定評がありましたが、どちらも私の職場からは遠かったので、職場の近くにある英会話スクールのおまけにくっついていたフランス語講座に通うことにしました。仕事帰りに無理なく通える方が長続きすると思ったのです。

私は大学生の時にアテネ・フランセに短期間通っていましたが、教科書と辞書を紛失してしまい(028.日記帳と盆栽)、そのまま中途退学してしまいました。そして大学の第二外国語でも学んだというのに、その頃の私のフランス語レベルは、月曜、火曜は言えても、水曜日はもう言えない、数も12まではなんとか数えられても13はもう忘れているという状態でした。

そこで、最初は日本人講師のクラスを3ヶ月、次にフランス人女性のクラスを3ヶ月取りました。どちらも週に2回のクラスでした。でもこの半年間は無駄な時間になりました。二人ともやる気のない講師で、特にフランス人女性講師の怠慢さは目に余るものがありました。

授業が始まるとすぐにカタコトの日本語で教科書の問題を自習するように指示し、授業中ずっと自分は英語のアガサ・クリスティの推理小説を読んでいました。私たち生徒といえば「あなたには何本の指がありますか?」という問いに対し、「私はそれを十本持っています」などという答えを書いて、アガサ・クリスティの先生に採点をしてもらうというものでした。

授業の終わりに、自分のノートに、TB(トレビアン)、B(ビアン)、AB(アッセビアン、まあまあの意味)の採点をされて帰ってくるだけの授業でした。あの頃は、仕事もフランス語も行き詰まりを感じていました。

3ヶ月後、初級1から初級2のクラスに同じ先生で持ち上がりと聞いて、私にとっては高額の授業料をドブに捨てたつもりで、再び初級1のクラスに申し込みました。英語のクラスは文法から会話、ディベートまで様々なクラスが用意されていましたが、フランス語は初級1、2、中級1、2という大雑把なクラス編成でした。

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しかし、その二回目の初級1のクラスで私は生涯の恩人ともいうべきフランス人の先生に出会いました。再度初級1を履修したのは私にとって良い選択でした。

最初のレッスンで、彼は耳に手を添えて「聞いてください」、口に両手をラッパのようにあて「話してください」、目に望遠鏡のようにした手をあて「見てください」、口の前で手を回しながら「繰り返してください」を意味するフランス語を教えてくれて、あとは得意のマンガと教科書で講義を進めていったのです。私たち生徒の前では決して日本語を話さないと固く決意しているようでした。

生徒から話を引き出して聞くのが上手で、私たちが間違いを怖れずにたくさん話せる雰囲気を作り出してくれる先生でした。何よりその情熱が伝わってくる授業でした。たくさんの文章を、聞いて、発音して、目で文法や単語を確認して、先生のあとについて繰り返し会話の練習をしていきました。

初期の頃の忘れられない授業は、フランス語の動詞の活用の覚え方でした。先生は「フランス語には日本語の『頑張る』に当たる言葉はないので、日本に住むフランス人は『頑張る』をフランス語の動詞みたいに活用させて日常会話で使っています。だから、みんなも『頑張る』の活用を覚えましょう」と、ホワイトボードにさらさらと次のように書きました(右は発音です)。

je gambatte            じゅ がんばっとぅ
te gambattes          てゅ がんばっとぅ
il gambatte              いる がんばっとぅ
nous gambattons       ぬ がんばっとん
vous gambattez         ゔ がんばって
ils gambattent         いる がんばっとぅ

フランス語学習者が最初に戸惑う基本動詞の活用形も、このように日本語を活用させてみれば、なんてことはないような気分になりました。それにしてもこれだけのことを、一般動詞の語尾活用もろくにできない生徒にフランス語だけできちんと理解させる不思議な力を持っている先生でした。

ある時、先生が「ライキドー」というので何のことかと思うと ”l'aïkidô” のことで、合気道にフランス語の定冠詞 le の省略形をつけて話すのはなかなか興味深いことでした。

それに「日本食はなんでも好きだけれど、力仕事をする時には、おにぎりなどではすぐにお腹が減ってしまうから、しっかりサンドイッチで腹ごしらえしないともたない」などと言って、私たち生徒を驚かせたりしました。

授業が始まるのは19:40からで、21:10までの90分授業でした。多少の残業があってもこの時間ならまず遅刻することもありませんでした。週二回、仕事が終わると、学校の近くにできたばかりのドトールコーヒーで、来る日も来る日も150円のコーヒーと180円のジャーマンドッグの決まった夕食を取りながら、復習や予習をしてから授業に行きました。

朝から駆けずり回ってくたびれ果てた日でも、これからフランス語のクラスだと思うと元気が湧いてきました。そして帰りにはもっと元気になっていました。

私は長いこと、先生は日本語を話せないのかと勝手に思い込んでいましたが、思わぬことから日本語の達人であることが判明しました。二年ほど経ったある日、アガサ・クリスティの先生が帰国することになって、そのクラス、つまり私の一つ上のクラスの生徒の振り替え授業を先生が担当することになり、そのためいつもの私たちのクラスは休講になったのですが、事務所の手違いから私には休講の連絡が来ませんでした。

その時、先生が事務方と交渉した日本語を聞いて私は驚きました。大変流暢な日本語でした。その日は結局、せっかく来たのだからと私も参加して振り替え授業が始まったのですが、顔見知りのかつてのクラスメイトたちは、ほとんどフランス語が聞き取れず、答えられず、まるで読み書きしかできない私の英語と同じレベルでした。気の毒でなりませんでした。

私は中学、高校、大学と十年間も英語を勉強しても、ほとんどまともに会話ができない典型的な日本人でしたが、この先生のもとでフランス語を学んだおよそ二年間で、フランス語検定試験(英検のフランス語版)の2級に合格するほど上達しました。当時はまだ準1級はなかったのですが、もしあったら受験しようと思ったことでしょう。

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クラスの人数は五〜八人程度で、学生はおらず全員が仕事帰りの人たちばかりでした。フランスに赴任が決まった官僚や、原子力関係の仕事でフランス語が必要になった人や、香料の会社に勤めている人もいました。バレリーナやファッション関係の仕事をしている女性もいて、多彩な顔ぶれでした。

授業が終わってから、生徒仲間でお茶やお酒を飲みに行ったりしました。ファッション業界にいたおしゃれな女性に、当時カフェバーの先駆けとして有名だった表参道のキーウエストクラブに連れて行ってもらったり、乃木坂のお店にいたらTBSのザ・ベストテンの出演が終わった歌手がやってきたりと夜遊びしたのも楽しい思い出です。

忘れられない生徒仲間には、とうに還暦を過ぎた男性がいました。彼が初めてフランスに行ったのは、戦前に横浜からマルセイユへの船旅だったそうです。若い頃フランスに憧れていたけれど、フランス語じゃ喰えないからと親に言われて経済学部に進学し、就職してその後会社を立ち上げ、さらにその会社を息子さんに譲って今は会長職に退いて、ようやく悠々自適に好きなフランス語を勉強できますと仰っていました。

私にはその方の言葉にどこかでずっと支えられてきました。人はいつでも学びたい気持ちさえあれば学べるというのは、頼もしい言葉でした。

私自身、五十代になって、長年憧れ続けていたプルーストの『失われた時を求めて』を原書で読みたいと思い、フランス語講読クラスで若い先生に手解きを受けながら読み始めたのですが、そのクラスにも年配の方々が何人もおられました。

皆さん異口同音に、若い時にはフランス語では喰えないからと銀行や商社やメーカーに勤めて、定年退職後にかつて若かった頃に憧れていたプルーストをようやく読み始めることができると仰っていました。

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英語はできないとコンプレックスになりましたが、フランス語はできなくて当たり前で、少しでも会話ができたり、読み書きできるようになるのは嬉しいことでした。仕事が忙しくなってフランス語学習を何度も中断しましたが、そういう時は、船でフランスに行ったかつてのクラスメイトの言葉を胸に、いつかまた再開しようと思いながら仕事に集中することにしました。

合気道をやっていたフランス語の恩師には、その後フランスに行った時に、友人と2人でパリを案内していただきました。先生がゴミを歩道の下の排水溝に投げ入れたのを見咎めるような視線を送った私に対して、「パリの下水道は、こうしてゴミを投げ入れるようになっているので、心配しないでね」とレ・ミゼラブルのジャン・バルジャンの逃避行を思い起こさせるような話をしてくれたことが懐かしく思い出されます。

私はフランス語で仕事をすることはほとんどありませんでしたが、フランス映画や小説、バレエ、音楽など、フランス文化に触れているのは私にとって「心の安らぎ」であり「快楽」でした。このような人生を歩んでこられたのも、一切日本語を使わずに、工夫を凝らし、全身で指導してくださったあの恩師のお陰だと今も心から感謝しています。

私にとってフランス語学習は人生の伴奏者のようなものです。これからも時々立ち止まったり休んだりすることがあるかもしれませんが、人生が閉じるまで仲良くやっていきたいと思っています。


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