080.時の彼方のお雛様

「親ばか」だと嗤いながら読んでいただきたいのですが、私は我が家のお雛様がこの世で一番美しいお雛様だと信じて生きてきました。細面の上品なお顔立ちに優雅な十二単衣を身につけたお雛様は、祖父母の家の床の間に緋毛氈を敷き詰めて飾られていました。

お内裏様とお雛様の背後には、金屏風ではなく、桜の透かし模様のある折り畳みの屏風があり、両脇には横にふっくらと膨らんだぼんぼりが飾られました。そしておふたりは、美しい縁取りのされた台座におひとりずつ座り、仲良く並んでおられました。

お内裏様がなぜ「おしゃもじ」を持っているのかは幼い私の疑問でしたが、背の高い烏帽子をつけ、凛とした眼差しをしておいででした。女雛は美しい扇を広げ、冠には細かい細工を施した真鍮に色とりどりのビーズがたくさんついていました。その可憐な冠は、雛壇に飾ろうとするとチラチラと揺れて、まるで天上からの音色が聞こえてくるようでした。

三人官女は立ち姿と座り姿のお人形があって、それぞれ手には長柄銚子や加え銚子、それに三方を持っていて、その細かな細工をみているだけでもうっとりとするのでした。お雛様の唄では「お嫁にいらした姉様によく似た官女の白い顔」とあるので、この方々はもうお嫁にいったのかしら、それともこれからいかれるのかしらなどと思いながら眺めていたものでした。

五人囃子の衆は、三人官女よりも若く少年のようで、太鼓、大鼓、小鼓、笛と扇子をそれぞれが持っていて、私はこの太鼓やこの笛は本当に音が鳴るのかと興味津々で、いつか誰もいない時にこっそり叩いたり吹いたりしたいと思っていました。けれども私にとって一番不思議だったのは、お人形と楽器の組み合わせがどうしてわかるのかということでした。間違って太鼓係のお人形に笛をお渡ししては大変ですが、毎年飾り付けの際、母や祖母はよく間違えないものだと幼いながらに感心していました。

次の段は、矢大臣が両端で、真ん中には三色の菱餅やおままごとの道具になりそうな可愛らしい食器が並びました。この菱餅は毎年和菓子屋さんが届けてくれるもので、桜色、白色、それに蓬色の三色のお餅が重なっていて、私はこの色の組み合わせを見るたびに、今尚お雛様を思い起こすほど、うっとりする春の色彩でした。

矢大臣(左大臣・右大臣)の下の段には、見事に咲いた左近の桜・右近の橘が両脇に添えられ、その間には、仕丁(しちょう)と呼ばれる御三方が並んでいました。お三人とも生成り色の装束から出た足が、裸足なのが私は気になって仕方がないのでした。桃の節句の季節はまだまだ気温が低いので、寒くないかしらと心配になりました。

さて、我が家のお雛様が他のお雛様とは違うのはここからでした。

我が家のお雛様は、これらのお人形のほかに、「浦島太郎」、「舌切り雀」、「花咲か爺さん」の昔話の一場面を表現したお人形も、共に飾られたのでした。

「浦島太郎」は、腰蓑に丁髷姿の浦島太郎がちょうど玉手箱を開けて白髪になってしまう場面で、煙は綿で表現されていました。大きな海亀も一緒に飾られました。

「舌切り雀」は欲深いおばあさんの大きな葛籠(つづら)からカエルやら蛇やらがたくさん顔を出していて、おばあさんが尻餅をついて驚いている場面でした。おじいさんは横で小さな葛籠を背負って倒れたおばあさんを覗きこんでいました。

「花咲か爺さん」は、満開の桜の木に登ったお爺さんが、花びらがたくさん入ったザルを片手に、もう一方の手を高く上げて花を撒いている場面でした。枝に置いたおじいさんの足の草鞋の紐まで鮮明に覚えています。

この三場面のお人形は、床の間のすぐ脇にある違い棚のある地袋の上に並べられました。私はお雛様が大好きで、全国あちこちの雛人形展や江戸時代からのお雛様が展示される催しには出来るだけ足を運んできましたが、我が家のお雛様の他にこれまで「浦島太郎」「舌切り雀」「花咲か爺さん」などの物語の一場面を描いたお人形を実際に目にしたことはありません。

お雛様の御道具もそれは見事にずらりと二段に渡って飾られました。

箪笥、長持に始まり、挟箱、鏡台、お針箱、火鉢、衣裳袋、さらにはお茶のお道具などもありました。私が最も興味があったのが「お針箱」で、これはいつも祖母が使っている絎台(くけだい)と同じ、小指の先程の赤くて丸い針山がついているのが魅力的でなりませんでした。そしてもうひとつは「鏡台」で、本当に顔が映るのではないかと思うような小さな小さな鏡がついていました。

お茶のお道具も忘れ難いものでした。小さな茶筅や茶碗など、お雛様が終わってもおままごとに使いたいと思うような食器がいくつもありました。ひとつひとつが丁寧に作られていて、愛おしいという言葉がぴったりなお道具ばかりでした。

細かく可愛らしいお道具の他に、御駕篭(おかご)、お重箱、それに御所車(ごしょぐるま)のような大きなお道具もありました。

◇ ◇ ◇

お雛祭りの当日は、着物を着せて貰って、近所の仲良しも呼んで、母の手作りのちらし寿司でお祝いしました。ちらし寿司の上には、桜でんぶの毛氈が敷かれ、うずらの玉子のお顔をしたお雛様ものっていました。お内裏様は薄焼き卵の装束で、女雛は桜色したハムが一番上にくる十二単衣に身を包み、目はゴマで、口唇は食紅で紅がさされていました。

白酒や淡い色味の雛あられが配られて、お雛祭りのレコードもかけてもらいました。

私はお雛様が大好きで、片時も離れていたくないほど、お雛様の季節にはずっとお雛様のそばにいました。お顔も衣装もお道具も、子どもながらに触ってはいけないとちゃんとわかっていて、時を忘れてうっとりと見惚れているだけで幸せでした。

大人になってからも、大きなホテルのロビーや雛人形展などでお雛様を見掛けると、何はともあれまずは近寄ってお雛様にご挨拶をして、お顔や衣装やお道具を拝見するのですが、いつもいつも「やっぱりうちのお雛様が一番綺麗」とまるで「親ばか」のようにホッと胸を撫で下ろすのでした。

◇ ◇ ◇

けれども「この世で一番美しいお雛様」は、もうこの世にはいないのです。今年八十九歳になる母と私の記憶の中だけで、鮮やかにその姿を残しているのです。

大阪の祖父母の家から、父の転勤で東京の西の郊外の家に引越して、わずか数年で我が家のお雛様には黴(かび)が生えてしまったのです。祖父母の家は昔ながら木造建築でしたが、引越し先の家は、鉄筋コンクリートの家でした。

木造の家では隙間風などで湿気がうまく逃げるような構造だったようですが、新しい鉄筋コンクリートの家では、当時の技術では湿気がこもってしまったようで、わずか数年後には、お雛様は黴だらけになってしまったのでした。

祖父母の家では広々とした床の間に飾られていたお雛様でしたが、転勤先の家では二階の六畳間に飾ると、部屋の半分くらいをお雛様が占めました。私はお雛様と一緒に眠るという幸せな時間を過ごしましたが、それはわずかに数年のことでした。

まだ小学校にあがったばかりのお雛祭りの際、お雛様を出そう木箱を開け、一体一体をくるんでいた新聞紙をはがそうとした母が、息を呑むような叫び声を上げたかと思うと、私にもうお雛様を触ってはならないと言いました。

母の手元の新聞紙は、それ自体が既に湿気を吸って変色していて、重たくなっているようでした。

母の衝撃はいかばかりだったことでしょう。母がどれほどのショックを受けているのか、小さいながらも私にはよくわかりました。お雛様の黴はもちろんですが、お雛様のことを大好きな私が、どれだけ嘆き悲しむかを想像して、母は大きな罪悪感に苛まれていたに違いありません。

母は、黴の生えたお雛様を私の目には触れないようにしてくれました。おそらく母もなんとか修復の方法を考えたのでしょうが、結局、すべて残らず破棄すると決めたようです。

あまりに母が可哀想で、私は悲しんだり嘆いたりしませんでした。母の悲しみを思うと、そのようなことはできませんでした。長いことお雛様のことは口にすることもありませんでした。それでも時が経つうちに、少しずつお雛様の話をしたり、どこかでお雛様を見かけると「我が家のお雛様の方が綺麗だったね」「うん、上品だったね」などと話せるようになりました。

◇ ◇ ◇

女の子が誕生すると初節句のお祝いに実家の祖父母が買ってくれるなどと時々耳にします。そういえば「我が家のお雛様」は、あれは一体いつ誰が誰のために買ってくれたお雛様だったのだろうと思い、先日母に聞いてみました。

すると母は「あなたは小さな頃からお雛様が大好きだったわね」といいながら、あのお雛様は母が生まれたお祝いに、祖母を親代わりに育ててくれた祖母の兄が贈ったものだと話してくれました。

◇ ◇ ◇

祖母の両親は早くに亡くなり、十五歳離れている三人兄妹の兄が祖母を可愛がって育ててくれたと聞いていました。両親が亡くなり、そして真ん中の妹が亡くなった頃、お兄さんは末妹の祖母を連れて故郷名古屋から東京の本郷へ出て、そこで事業を始めました。大正年間のことでした。

お兄さんは明治15年(1882年)生まれ、祖母は明治30年(1897年)の生まれです。祖母はお兄さんの子どもたち、つまり甥姪を可愛がり、その後郷里名古屋の祖父の元へ嫁ぎました。

大正12年(1923年)に起きた関東大震災の時には、まだ二十代半ばの祖母は心配のあまり、取るものも取らずに汽車に乗って東京の兄を訪ねて、混乱の中を探し歩いていると、何人もの人から「このご時世に帯をしめているとは何事だ、けしからん」と叱られたという話を聞いたことがあります。東京は大混乱だったそうです。

祖父母は結婚してから十年ほど子どもに恵まれませんでした。本人も周囲も諦めかけた1932年(昭和7年)に、待望の母が生まれました。お兄さんもどれほど喜んでくれたことでしょう。きっと嬉しさの余り、大奮発して当時の腕の立つ人形師が作った雛人形をお祝いに贈ったのだと思います。

ぼんぼりに電気で明かりが灯るようになっていましたから、昭和8年(1933年)の初節句のお祝いの品としては、最新鋭のお雛様だったことでしょう。「浦島太郎」「舌切り雀」「花咲か爺さん」のお人形まで揃っていたというのも斬新だったに違いありません。

母は、この東京にいる伯父さんのことを「東京のおさま」と呼んでいましたが、その発音は「そまめ」のように前からふたつ目の音にアクセントをつけて「おさま」と発音するのでした。

◇ ◇ ◇

母に何年かぶりにお雛様の話をしたら、声のトーンが華やいで「あらそれじゃ、名古屋の家の階段覚えてる?」と私に聞きました。そしてすぐに気がついて、「あら、名古屋の家だもの、あなたは知るはずはないわね…」と口籠もりました。

母が育った名古屋の家では、お雛様と共に飾られた祖母の煎った雛あられをつまみ食いするために、幼かった母は階段をそーっと上ったのだそうです。祖母はお餅を8ミリくらいに細かく切って、白く煎ったあられと、お醤油で色づけしたあられと、二種類のあられを作ってくれていたと懐かしそうに話してくれました。

その名古屋の家は、戦争末期の名古屋の大空襲で焼けてしまいました。母たちは、その数年前に祖父の転勤で大阪へ引っ越していたので無事でした。

母は、お雛様のことを話すと涙が零れると言いました。

◇ ◇ ◇

私が生まれる前に東京のおさまは亡くなっていましたが、祖母が可愛がった三人の甥姪は「叔母さん、叔母さん」と慕ってくれて、祖母への恩返しのように母や私を可愛がってくれました。亡くなった後も祖父母の法事にはいつも三組のご夫婦お揃いで参列してくれていました。

東京のおさまの事業は、今では私の「はとこ」にあたる人物が継承していますが、まさか自分の祖父の贈ったお雛様のことを私がこれほどまでに心の中で愛でているとは知らないと思います。そもそもおじいさんが、お雛様を贈ったことすら伝わっていないでしょう。

祖母の甥姪は母のいとこになりますが、ひとり亡くなり、またひとり亡くなり、遂に末妹がひとり残りました。その方とも長らく親戚づきあいをさせてもらってきましたが、今年の年賀状には「昨年百歳を迎えたので本年をもちまして年賀状は失礼させていただきます」とありました。

祖母が「りょうちゃん、りょうちゃん」と可愛がった姪っ子が、もう百歳を超えたと聞いたら祖母はなんというでしょう。

我が家のお雛様は、今はまだ母と私の記憶の中にありますが、いつしかあらゆることと同じように、時の彼方へ消えていくのだろうと思います。


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