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サブカル大蔵経765伊藤亜沙編『利他とは何か』(集英社新書)

他人の気持ちを知ることはできるのか?

はからいを捨てることはできるのか?

他力と自力のはざまを揺れ動く。

みな素晴らしい提言なれど、本当に何がいいことなのかわからなくなる素敵な本。

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「利他主義もこれからの重要なエレメントになる」p.4

 ファッション誌編集長の言葉。

【伊藤亜紗】「困っている人のために」という周囲の思いが、結果として全然本人のためになっていない。p.19

 「全然本人のためになっていない」と当事者以外の方が決めてよいのか?と思ったりもしました。

効果的利他主義は、こうした共感に基づく利他を否定します。/つまり、地球規模の危機は、「共感」では救えないのです。p.26.30

 共感の否定、共感の不信、共感の限界。

数値化できないものを数値化しようとする欲望とその背後にある管理への欲望p.44

 ブルシットジョブ増大。管理部門肥大。経営学的にシフトした宗教団体の現在。

「障害者を演じなきゃいけない窮屈さがある」/障害者が、健常者の思う「正義」を実行するための道具にさせられてしまうのです。p.47

 演じても、道具にさせられてもいいのでは?ということも思いました。健常者も道具なのだから。しかし、過剰な正義はお互いを滅ぼす。水木しげる『熊楠』での熊楠と街の障害者との関係性が今浮かぶ理想。

利他とは「聞くこと」を通じて、相手の隠れた可能性を引き出すことである、と同時に自分が変わることである。p.61

しかしそれも相手を置いてきぼりにしてないだろうか。自分メインの危険性が誰しもある。

【中島岳志】「贈与」のなかに、支配と絡まってくる問題か含まれているp.75

 贈与の恐ろしさ。

返礼への違和感。何かやったことに対する返礼としての言葉がかえってくると、その関係性が変わってしまう。p.91

 インド人に感謝してキレられたこと。息子に感謝されてモヤモヤしたことの共通。感謝や褒めを口にすることの怖さ。

「私は」ではなくて、「私に」で始める構文のことを、ヒンディー語では「与格」といいます。p.101

中動態に与格。インド文法の波紋。サンスクリットの授業を受けてきた人間にとってはまさかの感慨深さです。

親鸞は単に自力を否定しているのではなくて、自力の限りを尽くせと言っている人です。自力の限りを尽くした人間こそが、それでもどうにもならない自己の限界を知ることができる。p.104

 このことも昔から感じていました。親鸞聖人こそ自力そのものの方だと。だから、余人が他力を感じるのは難しいのではと。

利他は私たちのなかにあるものではないp.107

 個のはからいをを超えた大きな物語。

【若松英輔】利他という出来事のさまたげになっているのは作意だというのです。p.128

 美の世界の利他。民藝、浜田庄司。

【國分功一郎】神的因果性においてとらえるということは、その人を免責することです。つまり自分がやってしまった問題行動をひとつの現象として客観的に研究するのです。そうすると、不思議なことに、次第にその人が自分の行動の責任を引き受けられるようになるのです。p.174

 おしつけ、か、おのずから、か。自分のこととしてこの文章を読みました。

【磯崎憲一郎】小説の歴史や流れのようなものがまず先にあって、そこにたまたま一人の作家がデビューし、作品を書き始める、そしてある時期が来たら舞台からは去って、次の世代の作家にバトンを繋いでいくように思えたのです。p.185

 大きな物語。

どんなにめちゃくちゃなことが起こってもこの世全体が存続し続けることだけは肯定する、という世界観。p.190

『百年の孤独』を愛読したクリントン。

【中島岳志あとがき】相手に対する過干渉は遠ざけられ、任せることや信頼することの重要性が見出されます。そうすると私たちは、自然と「うつわ」のような存在になっていきます。p.212

 ここが理想の答えでしょうか。 


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