ベッドタウンの日常。
隣の隣の街の蔦屋書店へ。
大学に、バイトに行かなくなってから東京に足を運ぶ機会はめっきり減ってしまい、感度の良い書店と交わる機会も同時に減った。埼玉はCityではあるけど東京より1歩、いや1歩半くらいカルチャーが遅れている気がする。
美術館も然り。
雨は降らないという謎の自信のもと、街を自転車で駆けた。エアコンなしでいけるエコい季節。地球温暖化が進むと春と秋がなくなるらしい。やだね。
蔦屋書店という名前ではあったけど、読みたい本の殆どはそこにはなく、ありきたりの増刷された本たちだけが並ぶ。造りはセンセーショナル、中身は保守。なんて皮肉を考えながら、適当に本をとって読み時間が過ぎていく。
「キシン!キシン!」
外へ出ると中庭のようなところで幼稚園生たちが闘っていた。物心ついた時からコンテンツによって闘わされるヒトって。
「あっそういえばマスク。」コロナ直前、銀座で買ったPITTAが今になって愛おしい。まだあの時はいろいろな国の人たちが街にはいて、皆が迫るウイルス予防にドラッグストアでマスクを買い求め始めてた頃。
薬局に入るなりもはやオートメーション化されたようにアルコールを手に。
最近は手に吹き付けた瞬間アルコールの濃度がわかるようになった。マスクは高い。もらったもの、買ったものは白マスクだけど肌が荒れる。
夕暮れ、知らない街の日常に足を運んでボーッとしながら自転車を押す。
「虚無の先の安定」とでも言えば良いのかしら。藤田やデュシャンほどの表現者ではないにしろ少なからず彼らが感じていた孤独の"それ"を今私は感じている。SNSで顕わになる感情と、実生活の無機質無感動な毎日。
どうするわけでもなく、目先の事と、先のこと。
それらのために、今日も魚の目をディスプレイに向けて手を動かす。
ポピーや彼岸花が咲く道すがら、赤く燃えてる空と同じ色をした髪色の女性を追い抜いた。黒々としたスーツと相反する髪の桜色。
街の景色が見覚えのある地にフェードインしていく中で、理想について。自由と権利と所得、視野について西洋哲学者のなりで考えてみる。
見覚えはあっても慣れた街ではない。慣れない道だとマップを開いてしまう。テクノロジーへの甘え。SNSデトックスはリラックスなのか修行なのか
日も暮れた頃通った団地には金木犀の香りが広がっていた。
金木犀、中学1年生頃、埼玉来たてを毎年思い出す。ばあちゃんなりの気遣いで、最初の数日間は途中まで一緒についてきてくれてたっけ。
今は北海道に住むばあちゃんにも、コロナになってから会ってない。ばあちゃんもコロナでだいぶ参ってるらしい。それでもじいちゃんがスマホデビューしたり、俺のインスタをばあちゃんが見ててネイルの事を話してきたり、未だに進歩はある。すごい。
帰路にある北海道チェーンのコンビニで買った林檎ジュースで潤いを満たし私は一本道を漕いで行った。
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