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産まれる場所は選べない⑦【壊れていく家】

父が亡くなってから母は1年ぐらい働いてなかったように思う。アルコール依存症だった父が居なくなったことでホッとしたのだけれど、ここからさらに家は壊れていく。

今度は母がギャンブル依存になったのだ。父が生きていた時、母と父は共依存だったのだろう。依存の対象が代わっただけ..だったのかもしれないけれど私にとっては大迷惑でしかなかった。

父が亡くなったのは私が小学校3年生にあがる頃。とすれば、8~9歳ぐらい。母は毎日パチンコ屋に入り浸っていた。開店前から並びラストまでは当たり前。学校帰りはほぼ夕方からパチンコ屋へ行き母を待ち、たまに幼なじみの家に行く。母が迎えに来るのは11時をまわってからだ。そんな幼い子を家に置いておくわけにもいかなかったのだろう、連休や夏休みや冬休みは朝からパチンコ屋へ連れていく。私はゲーム(当時はゲームボーイ)か漫画の本を与えられ、ひたすら待ち合い室で時間を潰す。といっても丸一日なわけで、私が母のところへ行きグズりだすと決まって母はお金を渡してきた。そして本屋へ向かい新しい本を買って...の繰り返しで一日が終わる。そうそう、昔、パチンコ屋ってマイクパフォーマンスがあったんだよね。それがBGMと合ってて妙に記憶に残ってる。後は、休憩に入った店員さんがよく話しをして相手をしてくれていた。他の常連のおじさんやおばさんとかね。可哀想な子だと思われていただろう。

この辺りから本当に嫌な記憶しかないしうっすらとしか記憶が無い。覚えているのは父が亡くなってからはコンビニ弁当か出前で、掃除をする人が居ないから家はゴミ屋敷のようになっていった。もちろん母が台所に立つ姿なんて見たこと無かったし未だに"母の味は?"と聞かれてもわからない。

それでも私は最初は頑張っていたように思う。ご飯を炊きおみそ汁と卵焼きを作ってみたり、掃除してみたり、洗濯してみたり…この頃から病的だったのかもしれないが、心配してもらいたくて熱を出す為に養命酒を飲んでみたり、わざとすり傷つくってみたりしていた。

私がやらなければ誰もやらないからしなきゃいけなかったのもあるけど、純粋に褒めてもらいたかったんだと思う。明日着る制服のシャツがないからとか下着がないから、とかじゃなくて、なにかしらの言葉が欲しくてやってたんだよね。きっと。だけど「しっかりしてるね」と近所のおばちゃんに言われるだけで一番欲しかった母の言葉はいつになっても聞けなかった。それどころか、今度は母の顔色を伺うようになった。勝った日は凄くご機嫌だが負けた日は怖かった。依存症あるあるだ。負けると決まって私のせいにされた。私がアレコレするのが責められているようで気に入らなかったのか?深い意味なんてなかったのか?わからないけど、いくら頑張ったって母達は帰ってこないし食べない。だから私は洗濯だけはしたけど、後のことはしなくなった。母が買ってきたコンビニ弁当を食べるか、お金を置いていたら出前を頼むか。掃除も汚くなったらお風呂とトイレだけちゃちゃっとするぐらい。

そうやって月日が流れ(記憶があまりないのでアバウトですが)私が5年生ぐらいだっただろうか?その頃には母は仕事していたが、休みの日はもちろんのこと仕事が終わってからもパチンコ屋へ行く毎日を送っていた。この頃には兄達も。帰って来るのは夜中0時前。そこから3人の今日の反省会や明日はどの台にするかだのやグチ大会が始まる。

そして、私が母達に期待をしなくなる日がやってくる。幼いながらに疑問から嫌悪感に変わりついに期待をしなくなる。ある日を境にね。

つづく



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