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【長編対談】国立大学は誰のもの、何のため ~千年前のボローニャから明治政府、橋本行革を通じて考える~(1.6万字)

米国在住スミさんが、東京の友人コイさんと、哲学・テクノロジー・歴史などについて毎週Facetimeでトークします(第32回)。
今回は、コイさんが考えていることを語ります(1.5万字+)。

1.日本の大学の環境、イケてる?

図22

(…Facetimeの呼び出し音)

ーはろー。

こんにちは。いい感じの喫茶店にいますね。

ー休日だからね。
でも論文とか読んで、大学とイノベーションの関係について考えてた。笑

コイさん、最近なんかイキイキしてないですか?笑
二か月ほどの暇な時間を経て、また色々問題意識が湧いてきた感じ。

ーそうね。暇なことに慣れてないから、いろいろ思いついちゃうんだよね。

で、何の話ですか。
大学発ベンチャーを盛んにしろとか、産学連携で先端的な研究開発を進めようとか、そういう議論ですよね。

ーアメリカだと、「バイドール法」で大学で生まれた知財からマネタイズできる仕組みを作ったとか、多額の寄付をベースに運用をして自由に使える研究資金を得ているとか。
そうした知をもとにスタートアップがうまれて、またそこからお金が戻ってくる、というイメージがあるじゃない。

バイドール法(1980年・アメリカ)
政府に委託された研究開発においても、大学や研究者が特許権を取得することを認めるもの。(出典:パテント・リザルトWebサイト)

そうですね。
いいんじゃないですか、それをやったら。

ー笑。
そうだけど、なんとなく腑に落ちないなとも思って。

出た、まためんどくさいことを考え始めるコイさん。笑

ーまあまあそう言わないで。笑

いえ、聞いてます。笑

ー日本版バイドール法ができたのが、90年代。「TLO」という大学の知財を管理してマネタイズする枠組みができたのが2000年代初頭。
それで、大学発ベンチャーに出資するベンチャーファンドの草分けである「東大エッジキャピタル」ができたのも2000年前半。

ふむ。
でも日米の差は、縮まるどころかますます開いてますよね?
中国やシンガポールの大学などにも後塵を拝して、大学ランキングでみても東大が50位くらい。あとは全然出てこないし。

ーうん。
ランキングだけですべてが語れるわけじゃないけど、たとえば東南アジアの優秀な学生は日本の大学ではなくて、アメリカの大学や中国の大学が第一オプションだということも聞く。

まあカリフォルニアの大学に通っている学生の一人としても、そう思いますね。

ーでしょう。
安宅さんのシン・二ホンとかを読んでも、大学の研究室というのはなかなか大変な状況になっている。

あー、それはよく言われますよね。
若手研究者の研究費用が全然ない、博士課程にお金がかかる、競争的資金をとるための書類作成作業が大変・・・

ーそうそう。

たしかに夢がないかも。
優秀な学生が行きたくなくなってしまうのもわかります。

ー俺の友人でも、アメリカはもちろん、シンガポールや中国は本当に研究環境として優れているという声を聴く。

そういえば、千人計画とかいう話もありますもんね。

ーうん。
安全保障上の問題というのはもちろん大事で、留学生をどう考えるのか、優秀層の流出をどう止めるかという議論もあるけど、単にお金を積まれているだけでもないような気もするんだよね。

2.ジェンダーの問題と日本

図23

えーと。といいますと。

ーたとえばジェンダーの問題。
森元総理の発言の件、問題の捉え方の多くは「国際的に問題になっている以上、オリンピックを円滑に進めるためには森さんは辞めるしかない」という風になっている。

まあそうですね。

ー「国際的にどう問題になっているか」というのは自分たちを外の視点から見てみるという意味で意識すべき視点ではあるけど、本質的な視点が欠けている。

本質的な視点?

ー女性も含めて様々な人間が、今の場所に十分に活躍の場がない、十分に声が聴かれていない、声をあげづらいとか。そうした層を社会に取り込むことは、社会にとってどんな意味があるのか、とか。

なるほど。

ーSDGsでもよく言われる「ダイバーシティ」を、本当に日本の社会でどう実現していくのか、という視点が無いと思うんだよなあ。

確かに、そうした声をあげる人はほとんどいないかも。

ーアスリートのなかでも、色々思っているけど声をあげられなかった方もたくさんいると思うんだよね。
山口香さんや、高橋尚子さんくらいまでならないと言いたいことを言えない。

そもそも論を意見すると、めんどくさい、という風潮があるし。

ー大学の話に戻ると、この前アメリカの大学にいる女性研究者と話していた時、「日本の大学では、十分に自分が活躍できる余地が少ないのではないかという危惧が拭えない」というようなことも言っていた。

教授会もあるし、そもそもリソースの配分も硬直的だというようなイメージはありますよね。

ーでしょう。
内部にいる人のなかで、「いま現在の実力のある人間にとって都合の良いように物事が進んでいきそう」というイメージはどうしてもある。

3.千年前のボローニャと、四百年前のハーバードの場合。

図24

なるほど。
しかし、学問の自由とか大学の自治とかいうことと関係してくるのですか。難しそうですね。

ーうん。
これは、「大学は誰のものなのか」ということだと思うんだよ。

会社はだれのものか、という議論に似てますか。

ーそうだね。
国家はだれのものなのか、ということにも似ています。

また大きな話を…笑

ーちょっと歴史を振り返ってみると、いわゆる大学のおこりのひとつとして、12世紀にできたイタリアのボローニャ大学があげられる。
これはとても面白くて、学生がつくった大学なんだよ。

画像4

(画像はWikipediaより)

えと、学生がつくった?笑

ーうん。
中世に法学を志す学生がボローニャに集まって勉強していたんだけど、彼らが勉強をするために先生を雇ったことが大学の起源になっている。

おもしろいですね。

ーそう、領主とか世俗の権力は関係ないんだよね。
学生が勉強したいことを勉強するために、大学という仕組みをつくっちゃった。

なるほど、学問の自由はむしろ当たり前ですね。
学生が教えてほしい(世の中で役に立つ)ことを勉強するんですね。

ーほぼ同時期にパリ大学も誕生しているけど、こちらは教会が作った。

あー、キリスト教を普及したり、キリスト教に基づいた社会を構築したりしていくためにつくったんだ。

ーそうそう。だから教える内容は、神学や社会科学が中心になる。
余談だけど、こうした形で西欧の大学が発展したため、科学はなかなか大学の表舞台には登場しない。

そういえばコペルニクスもニュートンも大学発ではないですよね。

ー実学としてのニーズも、教会としてのニーズもない。
あまり勉強されない、むしろ忌避されたらしい。

アメリカではどうだったんだろ?

ーアメリカは、様々な大学が設立されて、また消えという多様な場所ではあるけど、ルーツをたどると、東海岸で清教徒が自分たちのコミュニティのために大学をつくったというのが出発点。
例えば、1636年に設立された、ハーバード大学。

画像5

(画像はWikipediaより)

出た、コイさんの母校。
プリマス上陸が1620年だから、落ち着いたらすぐに大学をつくった感じなんですね。

ーそうだね。ハーバードに限らずアイビーリーグの大学は私立なんだけど、コミュニティがつくった、という色彩が色濃いように思う。

ほう。

ー東海岸の有力大学は、のちのちに研究大学として、まさに世界の頭脳をあつめるようになっていくけど、その出自からして社会との関係を常に強調するような場所なんだよ。

なるほど。
だから、ジェンダーとか、人種差別とか、そういうことにもとても敏感なんだ。

ーそうだと思うよ。
昨年のBLMの運動のなかで、プリンストンやイェールなどの大学では、かつて奴隷運動に加担したと思われる卒業生の名前を冠した学部や建物の名前をそのままにしてよいのか、大きな論争があったりした。

そうでしたね。
ポリティカルコレクトネスで息苦しいなとも思ったけど…。

ーもちろん、そういうポリティカルコレクトネス的な部分はあるんだと思うよ。社会との関係を常に考えて、それに反応していかなければいけないというプレッシャーは非常に強いんだと思う。
でもむしろ、大学が開かれていて、文字通りステークホルダーという感じで、議論がなされている。

4.大学のゴールとは?明治政府の強い意思

図25

なるほどねえ。

ー大学教育の最終的なゴールを、”社会をよくすること”と置いているから、「大学の自治」というのも、大学内部の一部の有力者が好き勝手やるものではない。

社会やコミュニティとの対話のなかで、大学をどう運営していくのか、という話になるって感じですかね。

ーそうだね。
もう少しいえば、「社会というのが大学の外にあってそこと対話する」というイメージよりは、「社会が大学のなかに取り込まれている」のかもしれない。

単に形だけステークホルダーの対話を入れればよい、という意味ではコーポレートガバナンスにも通じるものがありそうですね。
そうすると日本の大学はどうなんだろ。

ー日本では、明治時代に国が、帝国大学をうわっと作ったよね。
同時期にやはりドイツ政府が、同じようにベルリン大学を国立でつくっている。

画像9

(図は1903年から1904年に撮影された東京帝国大学。Wikipediaより)

なるほど。坂の上の雲の世界だ。

ーそうそう。近代国家を運営していくというのは大変。論語、朱子学ではうまくまわっていかないよね。

実学とか、洋学とかですね。

ーうん。
例えば、治外法権や関税自主権を取り戻すためには法治国家にしていかないといけないし、独立を保つためには鉄をつくってインフラをととのえて、経済を発展させて軍艦や大砲をつくらないといけない。

たしか、小村寿太郎(法律)とか古市公威(土木)、岩本新六(陸軍工兵)もそれで留学してたはず。

ーそうだね。近代国家設立のために、国内のあらゆる人材に高等教育のチャンスを提供して、できるだけ早く実学を学んで国に貢献してもらわないといけない。
だから国が、どんな出自の子弟でも勉強さえできれば、国の役に立てるんだ、という仕組みとして国立大学を作った。国としての明快な意志が感じられる。

なるほど。
今風にいえば
インクルージョン、かなあ。

ーうん、とてもそうだと思う。
明治政府というのは近代国家だから、維新の際の朝敵となった藩の出身であっても、公務員や軍人になったりして、国に貢献する道を広く開いている。

そうですね。

ー徹底的に人材が足りないわけですから、役人をやったり、新しい技術を学んで発展できたりする人材は誰でもほしかった。
こういう国民国家のニーズに応えて、大学がそもそも出来た。

慶応や津田塾、同志社などはまた別の思いですよね。

ーそうだね。
「一身独立せずして一国独立せず」と言った福沢諭吉、「女性もひとしく教育をうけるべきだ」といった津田梅子、キリスト教的な啓蒙主義を導入しようとした新島襄などももちろんいる。
ただ、大きく見れば、国のニーズに基づいて国立大学(旧帝大)を中心に高等教育が整備されていった。

確かになあ。

ーこうした大学は、国がつくった大学として整備されていったわけだから、①国の向かう方向性と、②研究者のやりたい内容、③学生の学びたい内容、この3つが一致しているうちは、とてもうまく機能する。
文部省を通じて大蔵省から予算もとりやすいし、研究者も自分たちの研究がそのまま国のために役立つわけですから、やりがいも一塩だよね。

そうですね。

ーただ、知というのはそういう単純なものではない。

5.「カネはだすけど口は出さない」の限界

図26

えー、と?

ーだんだんと知が成熟してくると、ある種、国の決めた方向性と少し違うことであっても、それらも含めて幅広く研究していくことが学問自体の発展には必要、と考える人が出てくる。

ああ、コペルニクスやニュートンのはなし。

ー自然科学だけじゃなく、人文・社会科学でも同じだよ。

たとえば?

ー大正期には、吉野作造の天皇機関説が問題とされ、言論の自由を守るべきだという議論があった。日中戦争の最中には、植民地政策に批判的だった矢内原忠雄が辞職を余儀なくされた。
もちろん、学問の自由以前に、表現の自由が非常に制限されている社会であったんだけどね。

なるほど。

ー戦後には、学問の自由は法的に担保されるようになる。
日本国憲法23条で「学問の自由はこれを保証する」とあるし、19条の思想良心の自由、21条の表現の自由もこれをサポートする条文になっている。

ですね。

ー「学問の自由を実現するための大学の自治」も認められ、研究の自由、研究結果の発表の自由、教授の自由、大学の自治があると解されている。

なかなか難しい話になってきたなあ。
でも要は、国は「金は出す、中身には口を出さない」ということで、学問が発展していけば良いんじゃな?

ーもちろんそうだよ。
今スミさんが言っていたような形で、まがりなりにも戦後半世紀以上にわたって「高等教育とはなんぞや」という理念を実際に適用してきたことは、とても大きな意味があったと思う。
たくさんのノーベル賞受賞者も出て、多くの研究者がアカデミア、産業界で活躍している。

ですよね。

ーその一方で、社会にとって、いくつかの大きな変化が生まれてきた。

6.社会は変わった。社会の仕組みは変わった?

図27

ぐぬぬ。

ーこの3つです。

1.米国など世界の大学がすごいスピードで成長するようになった
2.国家としての共通目標をもちにくくなった
3.日本の経済が成長しなくなってしまった

こうした変化が、カネはだすけど口は出さない、自由に研究せよ、という牧歌的な仕組みを、社会としても、実態としても、成り立ちにくくさせてきてしまった。

うーーーん?

ー笑。順を追って説明するよ。
まずは1997年12月3日、橋本総理のもとで行政改革会議の最終報告がとりまとめられた。

画像8

図は日経新聞Webサイトより

何の話してたんだっけ。

ー官邸機能の強化や省庁再編につながった極めて大きな答申だよ。
少し長いけど、答申の「はじめに」の問題意識はこんな感じ。

「本行政改革会議は、・・・①21世紀における国家機能のあり方、②それを踏まえた中央省庁再編のあり方、③官邸機能強化のための具体策、を主要な検討課題とする・・・」
「今回の行政改革の要諦は、肥大化・硬直化し、制度疲労のおびただしい戦後型行政システムを根本的に改め、自由かつ公正な社会を形成し、そのための重要な国家機能を有効かつ適切に遂行するにふさわしい、簡素にして効率的かつ透明な政府を実現することにある。(中略)徹底的な規制の撤廃と緩和を断行し、民間にゆだねるべきはゆだね、また、地方公共団体の行うべき事務への国の関与を減らすことがその大前提となる。」
「われわれの取り組むべき行政改革は、もはや局部的改革にとどまりえず、日本の国民になお色濃く残る統治客体意識に伴う行政への過度の依存体質に決別し、自律的個人を基礎とし、国民が統治の主体として自ら責任を負う国柄へと転換することに結びつくものでなければならない。」

壮大だなあ。
自立的個人を基礎として、国民が統治の主体として自ら責任を負う国柄へと転換する…って、菅総理のいう「自助の世界」みたい。

ーどうなんだろうね。
国家が介入を控えるという「新自由主義的」な側面ももちろんあるけど、単純にマーケットがすべてを解決する、ということでもないんじゃないかな。

どういうこと?

ーハイエクなども自由主義を標榜する中で、政府の役割は必要だということを言っているけど、「自律した個人が公を形成し、貢献していく」という民主主義のロマンティシズムも感じられる。
答申でも、このあとに続く、「行政改革の理念と目標」のなかにこんな記載がある。

「長年にわたる効率的かつ模倣的な産業社会の追求の結果、この国は様々な国家規制や因習・慣行で覆われ、社会は著しく画一化・固定化されてしまっているように思える。われわれは、敗戦の廃墟のなかから立ち上がり、経済的に豊かな社会を追求する過程で、知らず知らずに、実は新たな国家総動員体制を作りあげたのではなかったか。右肩上がりの経済成長が終焉し、社会の成熟化に伴い、国民の価値観が多様化するなかで、かつて国民の勤労意欲を喚起し、社会に活力をもたらした同じシステムが、現在ではむしろ、もたれあいの構造を助長し、社会の閉塞感を強め、国民の創造意欲やチャレンジ精神を阻害する要因となりつつあるのではないか。」
日本の官僚制度や官民関係も含めた国家・社会システムは、一定の目標を与えられて、それを効率的に実現するには極めて優れた側面をもっているものの、独創的な着想や新たな価値体系の創造、あるいは未曾有の事態への対応力という点では、決して第一級のものとはいい難い。最近日本の国家・社会を襲った様々の出来事は、われわれにこのことを痛感せしめているのではないか。本国憲法第13条は、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で最大限の尊重を必要とする」と規定している。ここに「個人の尊重」とは、一人ひとりの人間が独立自尊の自由な自律的存在として最大限尊重されなければならないという趣旨であり、そのためにこそ各種人権が保障されるのである。そして憲法前文にいう、「主権が国民に存する」とは、そのような自律的存在たる個人の集合体である「われわれ国民」が、統治の主体として、自律的な個人の生、すなわち個人の尊厳と幸福に重きを置く社会を築き、国家の健全な運営を図ることに自ら責任を負うという理を明らかにするものである。・・・「公共性の空間」は、決して中央の「官」の独占物ではないということを、改革の最も基本的な前提として再認識しなければならない。
「限られた資源のなかで、国家として多様な価値を追求せざるを得ない状況下においては、もはや、価値選択のない「理念なき配分」や行政各部への包括的な政策委任では、内外環境に即応した政策展開は期待し得ず、旧来型行政は、縦割りの弊害や官僚組織の自己増殖・肥大化のなかで深刻な機能障害を来しているといっても過言ではない。本来国民の利益を守るべき施策や規制が自己目的化し、一部の人びとの既得権益のみを擁護する結果を招いたり、異なる価値観や政策目的間の対立や矛盾を不透明な形で内部処理し、あるいはその解決を先送りしてきた結果が、最近における不祥事の数々や政策の失敗に帰結している実情をわれわれは真摯に受けとめなければならない。」

当時の行政改革への熱が伝わってくるような文章ですね。

ーでしょう。
実際、1996年月から1997年にかけての約1年の間に、産官学労メディアの主要メンバーが集まって、全体会議だけで45回も会議が開かれた。
このほかに下部会合や地方主要都市での会議もあって、、ほぼ毎週にわたって議論をしていたんだよ。

それはすごい。
不確実性のある時代に、しかも、高度成長がおわって分配できる財政的な原資が限られているなかで、官はもはやアプリオリに物事を決めることはできない。
だから国民ひとりひとり、あるいは企業それぞれの自主性をできるだけ尊重し、その創意工夫によって自活せよ、というのが基本メッセージかな。

ーそういう趣旨だよね。

大上段の議論だけど、20年経ったいまにも通じるところがありそうな感じ。

ー答申のなかで、公の領域における官の独占を廃し、「自律した主体の関与」を非常に強く期待しているところのが特徴的だよね。

ほう。

ールソーの『エミール』にも通じるところがある。
「人間の自由を考えるなかで、個人的自由と社会的な自由のバランスをとっていく」「公的な活動にエンゲージするなかでそうした観念が養われていくのだ」というような、フランス啓蒙主義の思想も根底にあるように思うよ。

7.社会課題にエンゲージするほど、
私はそんなに意識高くはないけど。

図28

うーん、理想として言いたいことは分かる。でも、そんなにうまくいくものなのですかなあ。

ーふむ。

私は怠け者だし、そもそも日々忙しいから、「社会的課題の解決に国民一人一人の自覚を持とう、さあ参加せよ」とか言われても、いやあ、どうもなあ、という気がしちゃう。
関心がないわけではないけど…。

ーそれはそうだよね。
国はもう方向性を示すことはできない、あとは各々自由にしてくれ、公的領域にも関心をもって参加してくれ、と丸投げされても…という気持ちになってしまう面はある。

そうそう、そういう感じ。

ーいずれにしても、こうした不確実性の高まる世界において、財政制約があるなか、官の役割を限定し、個人に公的領域への参加を促す改革は、この時代の様々な面で表れている。
裁判員制度にしても、自律性の要請を主眼にしたゆとり教育にせよ、産業領域におけるさまざまな規制緩和にしても、21世紀の初頭というのは、官の自信喪失とも言いえるような小さな政府への志向があるわけだよね。

なるほど。
でも今のアメリカを見ても、なんでもかんでも国民全員で決めるというのは、全体としてみても、物事とが右に左に振れすぎるような気もしますよね。たしかに政府があれせい、これせいと決めていくのは無理なことも分かるような気もするけど、難しいですね。

ーよくある話で、プロ野球のファンが集まると、スタメンと打順をああせいこうせいと監督の采配に文句をつけるわけだけど、だからといってファン投票で打順を決めるということでシーズンの長丁場を優勝できるわけではない。

そうなんだ。野球全然わからんです。笑

ーそうなんだよ。笑
アメリカのオールスターだと、ファン投票で1位を獲得した選手がスタメンになる。

へー。

ーただ、ファンが100試合以上の長いシーズンをずっと打順を決めていくのはやっぱり難しい。

でしょうねえ。

ーコンディションを一番近くで見てる人が決めたほうがよいとか、やはり専門家にまかせたほうがいいとか、いろいろあると思うのですが、一番はコミットの強さなんだと思います。

コミットですか。

ーファンといっても、チームが負けて責任をとるわけではない。いや、本当に残念に思うひととか、涙を流す瞬間ももちろんあるんだけど。
でもたとえば、選手からすると、勝てなければ給料は下がるし、試合に出られなければ最後はクビになってしまう。

そうですね。そんな居酒屋で飲みながら決められても…って感じ。

ーもちろん、監督やGMという存在も、選手は他人ではあるけど、やはりそこはなんとなく当事者性がある。

なるほどね。

ー人間は、色々とやることがあって忙しい。
本当に自分に関係がある、当事者として判断しなければいけないことについては、しっかりコミットして判断して、もしうまくいかなかったら批判を浴びたりしてでもやることになるよね。

それはそうです。

ーこの行革の基本方針はとても理想主義的で意欲的だと思う。
地方分権の推進やふるさと納税、NPO法や寄付税制、裁判員制度、情報公開やパブリックコメントなど、個人が公の領域に当事者として関わる仕組みは増えてきた。
それでもまだ、実態は限定的だよね。

国政のさまざまな課題に、個人ひとりひとりがコミットして判断していくというのは、必ずしもうまくいっていないんじゃないかなあ。

ープロ野球のファンがスタメンを決めていくのが難しいように、やはり公的な話を決めていくのは難しいわけで。
そこはある種、個人個人がその問題を自分事だと思っていくような仕掛けが必要なんじゃないかな。

なるほど、そうですね。

8.国立大学改革を振り返る

図29

ーで、ようやく本題の大学に戻るけど。

あ、そうだ。大学とイノベーションの話だった。笑

ーいま言ったように

・日本の経済が成長しなくなり財政制約も高まったので分配の原資は増えない
・国家としての共通目標を立てにくい
・したがって、自由にやってくれ、がんばれ

という90年代以降に進められる改革のなかで、大学は「法人化」されることとなった。

法人化というと、具体的にどういうことなんだろ?

ー簡単にいうと、自主性を尊重して自由にやってくれ、ということだね。

ほーーーう?笑

ーそれまで大学は、文部省の指揮監督下に置かれていて、毎年の予算要求にも国の意向がかなり反映されていた。
もちろん、どういう学問を研究するのかという自由はあったけど、大学の方向性をどうしていこうか、ということは文部省の意向が非常に強く反映される仕組みだった。

と言う話でしたね。明治に遡れば。

ーそういう状態から、学長=法人理事長の権限を強めるなど、各大学の自律的な運営も目指すことにして、文科相の関与は、6年ごとの中期目標策定や中期計画の認可などに限ったわけだよね。

なるほど。

ー予算面でも、国からの運営費交付金を「渡し切り」として、国は使い道に口を出さないし、次年度繰り越しも可能になった。
ほかにも、例えば、「学部のなかに○○科を置く」といったことまで省令に書いていたので、学科名を変えるのにも省令の改正が必要で時間がかかる。そういうことも自由にできるようにした。

いい感じじゃないですか。

ーそれに法人化の前は、教員をはじめとした職員も当然、国家公務員だったので、これを国家公務員から外すということになった。
さっき話した行革の流れのなかで、国は真に国がやるべきことに集中して、公務員を削減すべしという方向性に沿ったということになる。

ほう。

ーということで、それまでは公務員なので、給与が基本的に一律に決められていたのが、頑張った人の給与を高くすることも柔軟になった、と。

ますます結構じゃないですか。

ーその一方で、もともと国から各大学に出ていた予算については、運営費交付金という自由度の高いお金については1年につき1%ずつ減少することにした。

15年たつとだいたい15%減ることになるから、なかなか大きなインパクトですね。
自由とともに、自活しろ、その分、競争的資金を得るようにがんばれ、ということですね。

ーそう。仕送りを絶たれた学生のような。

なるほど、アルバイトをするか、安いアパートに引っ越すしかない。

ーそうそう。
そういう背景のなかで、ILOという大学の知財を管理してマネタイズする枠組みができた。大学発ベンチャーに出資するベンチャーファンドの草分けである東大エッジキャピタルもできた。
いいですよと、運営費交付金が減るならば、産業界と共同研究をしましょうと。

ようやく冒頭に話がつながってきた。笑

ー国はお金を出さない、じゃあ、どうやってお金を稼ごうか、というのがこの15年の歩みだった。

でも、世界の大学とは差がついてしまった、と。

ーもともと、地方の公立大学など競争的資金を得にくい大学が苦労をするということは指摘されていた。
また、学費が高騰して貧しい学生の教育機会が減ってしまうかもしれないということも危惧されていた。

そういう問題は実際起きていますよね。

ーただ、そうした問題だけではなくて、トップスクールにおいても、世界の大学との差がついてしまった。

東大50位。

ー研究だけじゃないよ。
例えば昨年はコロナにみまわれた一年でしたが、米国や中国の大学は早々にオンライン授業に切り替え、少なくとも授業に大きな支障は出なかった。

私の大学も、もう1年間完全リモートですよ。笑
でも日本の大学でのDXの遅れも指摘されましたよね。

ーそもそも、MITなどのアメリカの多くの大学は「MOOCS」と呼ばれる学びのコンテンツを世界中に無料で配信をする取り組みなど進めているから、あまり抵抗がなかったのかもしれない。

日本ではそうした面もまだまだですよね。

9.大学は誰のものか、誰と議論するか。

図9

ー例えばアメリカの名門、イェール大学を見ると、大学の財源の多くの部分は寄付、あるいは寄付をベースにした基金の運用益から出ているんだけど、ファンドレイジングのために大変な努力をしています。

大学なのに、すごいね。

ー税制の優遇という側面や、機関投資家が積極的に大学の基金に金をいれるという側面もあるけど、社会に対してどういう貢献をしているのか、きめこまかく説明をしている。

ようやく日本でも東大が統合報告書を出し始めたとかなんとか。

ーとてもいい動きだよね。
東大は大学債を発行して資金を調達したし、少しずつ変化している。

でも、なにが足りないんですかね。

ーすごく大雑把な言い方なんだけど、多くの人にとって大学がどうなろうと関係ない、ということなんじゃないかなあと思うんだよね。

関係ない。
さっき話していたコミットの話ですか?

ーそうそう。
大学ランキングが落ちようと、ポスドクが就職が見つからず、研究費用も削られ、事務処理ばかり増えようと、どこか他人事だよね。

まあそうですね。
自分の母校でも、まあ関係ない、気にしないなあ。

ー卒業生だけでなくて、企業も関係ないように思っているんじゃないかな。

はあ。

ーもちろん、IT時代に即したデジタル人材が必要だ、とか、リベラルアーツを修める視野の広い人材が必要だとか、そういうことは要求するよ。
自社の研究開発に連なる学科との共同研究も増えてきた。

あとは、社会人基礎力が、とか、使える博士を、とかですね。

ーでも、だからといって、「大学かくあるべし」と積極的に思想を打ち出していることは、大学法人化の議論以降、あまり目立たない。
企業の経営者が、個人として大学の運営をサポートしたりするケースはあるけど。

そうですね。
そもそも高等教育とは一体何か、国のかかわりはどうあるべきかという議論はあまり聞きませんね。

ーそもそも大学は、文部省を通じた大蔵省とのコミュニケーションのなかで生きてきた。
戦略もへったくれもない。

うーん。

ーそこで急に自由にやれと言われた。お金を減らすと言われた。
がんばって資金をとろうとしてきたわけだよね。

はい。

ー他方で、いくら自由を与えられても、交付金が減らされた分を競争的資金で埋めたところで、「大学の方向性を大きく変えること」は実態としてなかなか難しい。

どうしてでしょう。

ーたとえば、大学でかかる費用の多くは人件費になる。
テニュアをもっている教授をクビにして、違う分野に大きく張るというのはなかなか難しいよね。

学長がそうしたい、と思っても難しいのかなあ。

ーもちろん、がんばっているところはあると思うよ。
でも、学問というのは、なにが役に立つのか、決めていくのはとても難しい、いろいろなことを研究していくと最後に役立つというようなこともある。

それはそうですよねえ。

ー最近、NTTの研究所は、デジタル社会の在り方を議論するために、京大の哲学の先生と共同研究をしていたりするよ。
面白いよね。

へ~。15年前は考えられなかったかも。

ー文化人類学も注目されている。
米国などでは普通にSaaS企業などで採用するトレンドがだいぶ定着してたりね。

おもしろいですね。

ーそうしたある種のセレンディピティを担保することも大事なわけで、そうすると一概に「この研究はもうやめよう」とか決めていくのは難しいかもしれない。

ふーむ。

ーそうした、研究する内容のバラエティを確保するとともに、大学は、若者を一定の社会人の素養を学ぶ教育の場でもある。

そういえば、教養学部・リベラルアーツというのは、クリティカルシンキングをできるようにすることがひとつの目的だと聞いたことがあるかも。

ーまさに、行革の基本方針で書かれているような個人を育成するには、そうした学びも必要になる。

たしかに。

ーそうすると、外部からお金をとって研究を強化する、多様な学問を研究する環境をつくる、研究だけでなく教育もしっかりやる、いろんな、とても大事な価値の間を調整しないといけない。

めっちゃ大変。

ーすべてが正しい価値同士のなかで、優先順位を決めていくことはとても難しい。それには、観点がいるから。

観点、ですか?

ーどうなりたいのか、あるいは社会からどのように期待されているのか、という将来像のなかで、優先順位をつけるという作業。

たしかにそうですね。
より高次な目的を決めると、価値の間の優先順位がつけられる気がします。

ーここで、じゃあ、学長や理事会がばばばん、とそれを決めて、みんながそれに従うのか、ということだよね。

大学の先生は学問の自由だとか、あーだこーだいってなかなか決まらないとかそういうことですか。

10.ステークホルダーになると、気になるし、一緒に嬉しいよね。

図10

ーもちろん、活発な議論はしたらよい、むしろなされるべきだと思うよ。一方で、国立大学においては、他者の視点というのはすごく弱いんじゃないかなあ。

さっき振り返った歴史ですね

ーそうそう。
もともと、文部省の内部機関だったわけで、国の意向を聞くことが第一だった。いまでも、自由になったとはいえ、予算の配分は文部科学省が権限があるし、多くの国立大学の副学長などには文部科学省の官僚が入っている。

なるほど。

ー一方で、アメリカの大学のように地域社会との結びつきや、アラムナイ(卒業生)との結びつき、逆に言えば、彼らの声を反映させる仕組みが強いわけではない。
また、ヨーロッパの大学に比べると自治の伝統も弱い。

そうですねえ。

ーそうなると、どうしても大学という組織内部で力をもっているひとを中心に、現状維持のなかでものごとが決まっていってしまう傾向があるんだと思います。

かなしい…。
でも、ジェンダーの問題にも通じますね。

ーそうだね。
文部科学省も多分そこは大いに意識をしていて、大学版ガバナンスコードというものをつくって、いろいろな外部の主体に説明責任を果たすべきというようなお触れを出してはいる。

へえ。
でもまあ、そういうのってどうしても形式的になっちゃう気がするな。

ーそうそう。
こうしたい、というところに強いコミットがなければ、居酒屋で好きな野球チームの監督の采配をああだこうだ言っているのと本質的には変わらない。

厳しいなあ。
しかしそうするとなにか夢も希望もないように思っちゃうけど…

ーまずは、国立大学について「国が口を出すことは一体なんの責任で、どこまで出すのか」というのを明確にすることなんじゃないかな。
国、というのは、国民から強制的に徴収した税金が原資だから、これに対するアカウンタビリティは一番厳しいものにならざるを得ない。国としては、何の観点でどこまでを高等教育に求めるのか、ということはきちんと整理していくべきなんだろうね。

たしかにそうですね。
国立大学は運営費交付金をもらっちゃって、それが財源の太宗を占めている以上、経営の自主性というのは相当に制限されますよね。

ーあとは、お金を出してくれるステークホルダーを外の関係者として見ずに、できるだけ「一緒に高等教育をつくっていく主体」として再構築していくことかな。

未来を一緒に考える、て感じだね。

ー「世界がこうなっていくなかで、どういう風な大学になりたいか」ということを本質的に色々な人とともにデザインしていく、不断にそれを続けていく、という。

行政改革会議にあった透明性とは、本来はそういう当事者性も含んだ話ですかね。

ーそうだね。透明にして外から見るだけでなく、一緒に考えていく、ということです。学長はそうしたビジョンのたたき台を示すコミュニティーオーガナイザーのようなものなんじゃないかな。

まあねえ。

ーこれは綺麗事として言っているわけではなく、実際的な効用もある。
結局、政府にしろ、企業にしろ、大学債にしろ、外からもらった金であり、本来的には自由になるものではない。

しっかりガバナンスして、しっかり返さなきゃならん、て感じですね。

ー他方で、たとえばエンジェル投資家が起業家にお金を出すようなとき、もちろん、返さなくてはいけないけど、そこには、期待とか、起業家が実現しようとする夢への共感がある。
それを成し遂げようとするトライへのリスペクトがある。

ふむ。

ーそういう関係のお金は、「ガバナンス」というようなよそよそしいものではなくなるよね。
裁量があって自由なのですが、ある意味、さらに厳しいとも言える。

期待されているだけにですね。

ーたとえば、大切な人がガンにかかっている。新しい薬をなんとかして早く開発してほしい。そんなときにお金を託したとして、日々どう使っているか細かくチェックしたいと思わないよね。
いいから、研究に集中して、一刻も早く成果を出してほしいと。祈るような気持ちです。

言われてみれば、気候変動とかサーキュラーエコノミーとかも似てますよね。
お年寄りの生活を明るくするテックとかもそうかも。

ーそうそう。

自分が大切にしている価値を実現してくれるんだったら、本当にそれをサポートしたいという気持ちは、怠け者の私でもある。
若干、地元の好きなお店でご飯をたべるような感覚ですね。

ーまさにそれだよ。
コロナのなかで、大変だろうな、支えたいなと思うじゃん。それは関係性が、「向こうとこっち」なのではなくて、両方とも「こっち」として、一緒の未来を見ていまる。

なるほどー。

ー大学の研究は本当に面白いことをやっている人がたくさんいるよ。
地元の中華料理屋と同じくらい、支えてあげたいと思う契機があってもいいんじゃないかな。

マクアケやレディーフォーなどのクラファンも盛んになってきてますし、社会の感じとしてはだいぶ受け入れられやすい雰囲気になってきた感もあるかも。

ーそれはそうだよね。

みんながエンジェル投資家になる感じですね。
ただ、膨大な研究から自分が好きなもの、良さそうなものを見つけるのは大変な気もする…。

ーそういう意味では、たある種のキュレーターみたいなものが増えて、接点が増えれば、そんなことができるんじゃないかな。

キュレーターか。

ーこれから企業や機関投資家に対しても、気候変動やSDGs、インクルージョンのためになにをやってるんだ、というプレッシャーも強くなっていく。
そういう時に、自分の会社で製品をつくったり、購入したりしなくても、大学の研究をサポートする、というような選択肢があってもいいよね。

なんだかあれですね。音楽に似てますね。
「研究」あるいは「研究者」というのがコンテンツになって、ひとびとをまた結んでいく、新しいお話がはじまっていくような。

ーそうそう、そうなんだよ。
文部省―大学、という単線関係のなかで、研究や大学運営の方向性を整理していたところを、うまく、当事者性をもったみんなで、一緒に未来をつくっていくイメージかなあ。

そこまでいくと、ようやく行政改革の基本方針にあった「個人が公的領域の意思決定に参加する」ということが、少し現実味を帯びるかもしれませんね。

ーそうなるといいよね。これまた、理想主義的なんだけど。
研究開発に対して社会全体で投資をしていくための美しい関係をどうデザインしていくのか、とても大きな課題だなあと。

あっ、コイさん、気づいたらもう2時間も喋ってますよ!

ーうわあ、ほんとだ。

面白かったです。
個人的には、コロナで個人投資をいっぱいするようになって、投資した銘柄の分野がとても気になって一喜一憂するんですよね。VRだの、ヘルスケアだの、女性活躍だの。

ーほほう。

さっき研究へのエンジェル投資家という話があったじゃないですか。
それも、今の個人投資と一緒で、大学の研究なり、日本という国なりの発展が、直接自分のステークになってうまくいけばリターンも返ってくる、って結構楽しい世の中だなあって。

ーそうだね。

大学改革という観点ではなくて、市民の生活の楽しさという意味で、私は惹かれましたよ。

ーまあ、そんなことをつらつら考えてましたよ。
今日はこの辺かな。

ですね。じゃあまたー。
休日なんだからゆっくりしてください。笑

ーはい。ではではー。


ここまで読んでいただき、ありがとうございます!嬉しいです☺︎