考えるカタクリ

学びとは何か。人とのつながりとは何か。これらを軸に、教育や社会問題、まちづくりについて…

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学びとは何か。人とのつながりとは何か。これらを軸に、教育や社会問題、まちづくりについて考えていきたい。  <仕事:教育にかかわること 趣味:庭を眺めること 好きな食べ物:甘いもの全般>

最近の記事

不安について内省する

 僕は、仕事をする上で失敗やうまくいかない経験をたくさんしてきましたし、今もしています。そうした時に、とても不安になります。なぜ、不安になるのか。ここから内省を始めたいと思います。 「なぜ不安になるのか」  失敗やうまくいかないことによって、仕事の成果に影響を与えることが考えられます。そうすることで、自分の仕事によってその成果がよい結果をうまない状態になる。そうなることが不安である。では、なぜよい結果を生まないことが不安になるのか。それは、その仕事をする上での職場や関係者

    • 仮面をつけた「私」で語ることはやめようと思った

       最近、自分が大人になっているのか子どもになっているのか分からない。 それは、これまで大人になっていく過程で培ってきた経験を含んだ話題(多くは職場にかかわる話題)をしていないせいかなと思っていたが、むしろそれ以外の話をすることが多くなってきたからだなと思った。  どうやら今まで「たくさんの仮面をつけた私」で過ごしてきていたのだなと気づいた。職場での私、中堅の私、30代の私。どれも「私」の前に何らかの役割を付けて語っていたのだ。それは、本当の私の言葉ではなく、仮面をつけて役割

      • 暗黙的前提知識と多様性の力

         読書をしていると、難しくて全然理解できない、言葉の意味することが想像できない、ストーリーとして頭に流れてこない、そんな本に出会うことがある。その時はなんとか骨を折りながら、読むということで精一杯。力尽きて本棚の奥へ・・・。  月日が経って読み直すと、なぜか以前はかたくなに理解をさせてくれなかった言葉たちがすんなり頭に入ってくる。そんなことがあった。 この間になにがあったのか。  それは、本を理解するための前提となる知識を獲得し、自分の中に落ちることで暗黙の前提知識になったと

        • 思いをすり合わせることの大切さが、忘れられているような気がする

           コンビニに行ったとき、一言もしゃべらずに買い物を済ませることができる。近所の人のことを知らなくても、挨拶しなくても、毎日が過ごせる。そんなことができてしまう世の中になってきている。  半面、あおり運転とか、ちょっとしたトラブルとか、すぐにケンカになってしまうとか、お互いに折り合いをつけるのが下手になっていないだろうか。  それはやっぱり、人と人との思いをすり合わせる経験が、地域から、生活から、どこからも少しずつ無くなってきているからだと思う。  人と人とは、考えている

        不安について内省する

          自分の愚かさに気付かされた瞬間

           自分が、いかに優劣の基準の中で、自分を優の立場に置こうとばかり考えていたのか、ということを知らしめられた。  ある課題に対し、参加者全員がプレゼンテーション形式で発表することになり、それぞれが自分なりにまとめてきた。周りの発表を聞いているうちに、自分の中途半端な出来があまりにひどいなと感じてきた。そこで、自分の発表の時には自分の努力不足を棚に上げて、程度の低さをふざけた発表の仕方でごまかそうとした。  たしかに笑いはとれた。しかし、発表が終わるとすぐに上司から「その発表

          自分の愚かさに気付かされた瞬間

          これでいいのか、働き方カイカク ~「多忙」と「多忙感」の解消のその先へ~

           いたるところで働き方改革の旗印のもと、業務の精選や削減、ICTへの代替が行われているようだ。特にICTの活用は常套句だ。その強みは、なんといっても効率的なマッチングにあるのだろうと感じている。先日、某寿司チェーン店に行ったところ、出迎えてくれたのが何ともシンプルな受付マシン(マシンとはレトロな表現だが、タッチパネルの受付である。)であった。人数とテーブル席かカウンターか希望をタッチして完了。後は自動音声に呼ばれるのを待つのみ。途中、自分より後に来たお客さんが先に呼ばれること

          これでいいのか、働き方カイカク ~「多忙」と「多忙感」の解消のその先へ~

          人は自分の領分を自分のためだけに使って生きていくことはできない

           人は自分の領分を自分のためだけに使って生きていくことはできない。いくらかを余白として残し、いつでも人のために差し出せるようにしておかなくてはならない。  もし、自分の領分を自分のためだけのことでぎりぎり一杯まで埋め尽くしてしまったら、人と少しでもぶつかっただけでトラブルになる。自分の領分の中に相手に差し出せるだけの余白がないのだから、言い合いになってしまうのは当然だ。  だから、自分の領分の中に相手のために差し出せる余白をいつも残しておかなくてはならない。そうやって自分

          人は自分の領分を自分のためだけに使って生きていくことはできない

          悲惨な事件に思うこと

           今朝、また心が泣いてしまうような事件があった。川崎での通り魔的な殺傷事件である。犯行に及んだ人物のことを許せないし、どうして大切ないのちが奪われなくてはいけなんだと、憤りとも悲しみともつかない思いが噴出してくる。このような事件はもうたくさんだと、犯人を早く裁いてほしい。そう思うのも当然である。しかし、ここでその思いをぐっとこらえて、この現象を社会病理の一つの発露としてみる必要があるのだと思う。ここで断っておきたいのは、被害者に関わる方々の悲しみは計り知れないものがあり、その

          悲惨な事件に思うこと