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仮面をつけた「私」で語ることはやめようと思った

 最近、自分が大人になっているのか子どもになっているのか分からない。
それは、これまで大人になっていく過程で培ってきた経験を含んだ話題(多くは職場にかかわる話題)をしていないせいかなと思っていたが、むしろそれ以外の話をすることが多くなってきたからだなと思った。

 どうやら今まで「たくさんの仮面をつけた私」で過ごしてきていたのだなと気づいた。職場での私、中堅の私、30代の私。どれも「私」の前に何らかの役割を付けて語っていたのだ。それは、本当の私の言葉ではなく、仮面をつけて役割を演じている自分が語る言葉。色々な仮面をつけ変えて、そのつどその仮面にあった言葉を、仮面をつけた私が語る。そうやっていろいろな仮面をつけた自分を演じていくうちに、自分の中に亀裂が入っていき、自分の中に矛盾が生じてくる。こうやって自分で自分を苦しめていたのだ。

 「仮面をつけたわたし」が語ることが大事にされるのは、仮面が大事なのであって、「わたし」があることとは関係ない。「わたし」はいつしか意味をなくしていってしまう。

 最近は、自分が仮面をつけずに話していることが多くなってきたのかもしれない。それは、弱さを見せることや、思ったままを話すことで、ある意味いままで積み上げてきた「大人の自分」を壊すことであった。だから、いま、自分は大人になっているのか子どもになっているのか分からなくなっていたのだ。

 大人でもなく、子どもでもない「わたし」。大人と子どもは二項対立形式で語られ、その意味することは成長、社会的自立や精神的自立など、その時々で様々だが、一様に子どもから大人へと高まっていくという構造になっている。「すべての子どもはいつかは大人にならなければならない。」という命題が敷かれた上になりたつ構造だ。でも、人はそうやって高さの違う次元の中で生きているのだろうか。

 あんがいそうやって高さの違いを強調しているだけで、もともと子どもも大人もないのではないか。あるのは、「わたし」で語ることが、だんだんと周りの人から信頼されていくという過程だけ。

 だからいいんだ。ぼくはいつもぼくでいいのだ。仮面をつけかえて生きる必要はなく、「わたし」のまま語ればいい。それを子どもっぽいだの、幼稚だのいう人がいるとすれば、その人たちに問題があるだけ。そんな人たちに心を乱されるのは、やめよう。

 「わたし」で生きていく。仮面をつけていない、「わたし」で。

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