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暗黙的前提知識と多様性の力

 読書をしていると、難しくて全然理解できない、言葉の意味することが想像できない、ストーリーとして頭に流れてこない、そんな本に出会うことがある。その時はなんとか骨を折りながら、読むということで精一杯。力尽きて本棚の奥へ・・・。
 月日が経って読み直すと、なぜか以前はかたくなに理解をさせてくれなかった言葉たちがすんなり頭に入ってくる。そんなことがあった。
この間になにがあったのか。
 それは、本を理解するための前提となる知識を獲得し、自分の中に落ちることで暗黙の前提知識になったということだろう。そうすると、その前提知識を知らず知らずのうちに活用しながら、本の意味を理解していったということだろう。つまり、色々と知ったから読んでも意味が分かるようになったんだね、ということだ。
 しかし、意外にその裏側に大切なことがあるのではないか。

 本の知識や集団の文化など、ある一塊の意味の総体において、目に見える状態になっている表現と表現の間には隙間があって、それを作った人や所属成員にとっては当たり前すぎて言葉に出されないので、その人たちにとっては意味がつながるが、外部の者には隙間だらけで意味が理解できないということが起こりうるということである。

 言葉と言葉の間にある隙間に、暗黙のうちに前提化された知識が隠れている。ここを掘り起こすことで、誰にでも理解されうる表現とすることができる。そのためには、「なぜ、そうなのか」、と自らに問い続けることが必要。しかし、どの言葉に対して問いを立てるのかが自分だけでは見付けにくい。それほどに自分にとっては当たり前だからである。だからこそ他者の目が必要になる。

 多様性が力になるのは、まさにこの場面だ。全然そのことを知らない他者が「どうして、そうなるの?」と問うことで、言われた側がはたとして気付く。その他者が自分とはタイプが全然違えば違うほど、この効果は大きい。

 多様性の力は、集団として射程できる範囲が広がること。ようはみんなばらばらで違った考えをもっているのだから、考えが重ならないのは当然でしょ、ということ。これが多様性の力の第一段階。
 しかし、このままでは一人一人の考えがだれとも重ならないので、集団として機能しない。他者への関心をもちにくいからなのだが、というより他者へ関心をもつことのメリットが感じられない。だから第二段階として対話が必要になる。しかも、疑問を投げかけ合う対話である。相手の考えに問いを向けることであり、自分の言葉と言葉のすきまを埋めることである。

 自分の考えを言語化することは、自分をつくることであり、自分を知ること。もしくは自分という意味を構成すること。言葉にできないものが多くあるなかで、言葉にできる範囲は自分が思っている以上にまだまだ広い。当然それ以上に言葉にできない無意識領域があるが、勝手に無意識領域化してしまっている意識領域があるのではないか。
 そこで多様性の力を使って、自分の中の言葉と言葉の隙間を埋めることができれば、それは自分にとっても非常に大きなメリットになる上に、他者にとっても大きなメリットになる。それがみんなに理解されると集団としての凝集性は高まり、さらに相互作用は高まる。

 これが多様性の力の一つの側面であろう。

 

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