悲惨な事件に思うこと

 今朝、また心が泣いてしまうような事件があった。川崎での通り魔的な殺傷事件である。犯行に及んだ人物のことを許せないし、どうして大切ないのちが奪われなくてはいけなんだと、憤りとも悲しみともつかない思いが噴出してくる。このような事件はもうたくさんだと、犯人を早く裁いてほしい。そう思うのも当然である。しかし、ここでその思いをぐっとこらえて、この現象を社会病理の一つの発露としてみる必要があるのだと思う。ここで断っておきたいのは、被害者に関わる方々の悲しみは計り知れないものがあり、そのことは絶対にだれもが忘れてはいけないという思いがまずはあってしかるべきであるということだ。その前提で、話を進めさせてもらいたい。この事件を社会病理が発露した現象ととらえることで、加害者もまたこの社会においての被害者であるといえるのではないかということである。

 加害者についてはよくわからないが、このような凶行に至ったことを考えれば、置かれている状況として社会的なつながりが限りなく少なく、自分の人生に生きがいを感じたり、自己実現の機会が無かったのではないかと想像される。ここからはその想像をもとに私の勝手な解釈である。それはこの状況に陥ったのは本人だけの問題なのか、ということである。本来ならばこのような状況になる前に社会的なサポートを得たり、地縁関係の中で支援を得たりできたのではないか。もっとさかのぼれば義務教育段階での友達関係が良好に築けていれば、もしからしたらこのような状況にならずに済んだのではないか。このように、これまでの成育歴の中での不適応状態をそのままにされたことは、本人にとっての困り感が解消されずにきた、ということだけでなく、詰まるところそのことが社会的リスクにまで至ってしまうということである。

 この社会病理の原因の一つとして、人とのつながりの希薄さがあるのではないだろうか。テンニースの考えを用いれば、人のつながりには2種類あり、血縁、地縁関係で結ばれる関係(ゲマインシャフト)と仕事等での役割や立場の上でのつながり(ゲゼルシャフト)がある。加害者が50歳台であったことから、どちらも築ける可能性があったはずであり、それぞれが良好に保たれていれば、少なくとも社会への怒りが暴力となって行動させることはなかったはずである。そのどちらもが希薄であることが本人の孤立を促す。孤立感を強めた人間は攻撃を高めていく。内に向けれられれば、自傷行為や自殺にまで至る自己破壊的な行動。外に向けられれば今回のような社会への怒りが凶行へと向かわせる。それは、「なんで認めてくれないんだ。」「自分を分かってくれる人間なんかいなんだ。」という叫びなのかもしれない。だからといってこのような行動が許されるはずがない。この怒りの衝動が内に外に関わらず発せられることはだれにとっても悲劇的なことである。

 社会関係資本の重要性が増してきているのではないか。それは単に人とのつながりが人生を豊かにすることだけでなく、社会的弱者を社会のつながりの中でみんなで支えることが、本人にとっても社会にとっても幸福をもたらすということである。

 もうこんな事件は起こってほしくない。この事件で失われた大切ないのちに手を合わせ、ご冥福を祈りたい。

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