自分の愚かさに気付かされた瞬間

 自分が、いかに優劣の基準の中で、自分を優の立場に置こうとばかり考えていたのか、ということを知らしめられた。

 ある課題に対し、参加者全員がプレゼンテーション形式で発表することになり、それぞれが自分なりにまとめてきた。周りの発表を聞いているうちに、自分の中途半端な出来があまりにひどいなと感じてきた。そこで、自分の発表の時には自分の努力不足を棚に上げて、程度の低さをふざけた発表の仕方でごまかそうとした。

 たしかに笑いはとれた。しかし、発表が終わるとすぐに上司から「その発表の仕方はあまりに失礼だよ。」と言われた。一気に恥ずかしさと自分のレベルの低さに気付かされた。周りは一生懸命にまとめたものを発表している中で、その緊張感を自分の勝手な感情で台無しにしてしまったのだ。そして、努力不足から目をそむけ、自虐的に笑いだけをとろうとした。

 自分は逃げていたのだ。自分と周りの出来の違いから、自分を貶めたくないと、土俵から逃げたのだ。優劣の基準だけで、自分が優に立てないと思うや、逃げたのだ。その行為が本当は一番恥ずかしいことなのに。

 その時間が終わるとすぐにその場を離れた。その場にいるのがつらかった。

 僕は優劣の基準の上で生きようとしてきたのだ。そして、いつも優に立とうと姑息に立ち回っていたのだ。努力もせずに、なんとなく繕ってその場をしのごうとしていたのだ。そして、上司の一言に気付かされた。なんて自分は自分勝手で愚かな生き方をしてきたのだろうかと。その日はずっと、悶々と過ごした。頭に回るのは、周りの人にどう思われただろうか、レベルの低い人間だと思われただろうな、などということばかり。まだ、人との優劣の中で生きていることに気付いていないのだ。

 苦しい、辛い。でも、それを作りだしたのは間違いなく自分であり、自分の身勝手な行動である。その責任をどうとるか、である。しかし、責任など取り切れるものではない。もはや起こってしまったことは変えられない。

 だから、責任はとれない。自分の起こした愚かな過ちを悔いて、悔いて、心に刻みつけるしかない。そして、これからの自分を変えていくしかない。周りの評価を取り戻そうとは考えないことだ。それこそ、また優劣の基準でしか考えておらず、優に立とうということでしか解決を考えない。自分だけを見つめ続け、自分の中で昨日よりもましな人間になろうと自らを律するほかはないのだ。

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