これでいいのか、働き方カイカク ~「多忙」と「多忙感」の解消のその先へ~

 いたるところで働き方改革の旗印のもと、業務の精選や削減、ICTへの代替が行われているようだ。特にICTの活用は常套句だ。その強みは、なんといっても効率的なマッチングにあるのだろうと感じている。先日、某寿司チェーン店に行ったところ、出迎えてくれたのが何ともシンプルな受付マシン(マシンとはレトロな表現だが、タッチパネルの受付である。)であった。人数とテーブル席かカウンターか希望をタッチして完了。後は自動音声に呼ばれるのを待つのみ。途中、自分より後に来たお客さんが先に呼ばれることがあったが、どうやらカウンターを希望していたらしく、順番が前後する可能性がある旨も同時にアナウンスされていた。ぬかりがない。待つこと10分弱。店内で店員が慌ただしく席の確認をすることは一切なく、落ち着いた雰囲気の中で自分たちも自動音声による案内を受けた。人数・席の形式と店内の状況とを効率的にマッチングするのは、人間がやるよりも機会がやるほうがはるかにスムーズだ。

 このような取り組みは、特に勤務時間の短縮(一人当たりの労働時間の短縮)に一番の重きが置かれているように思う。しかし、そのような取り組みを進めることで、退勤時間が何分早まったか、労働者を何人減らせたかなど、方法論と結果を結び付けて満足している様子が見られないだろうか。方法論ばかりを見ていると、そもそもなぜこのような取り組みを始める必要が出てきたのか、この取り組みをすることで何を達成したいのかを忘れてしまった「働き方カイカク」になってはいないだろうか。

 労働時間を減らしてプライベートを充実させることが、労働へのよいリフレッシュになる、という考え方は、労働は苦役であり、なるべくなら多くの時間を割きたくはないものであるという考え方を生み出してはいないだろうか。内田樹氏は以下のように述べておられる。

 繰り返し言いますけれど、愉快に仕事をしている人間には「オンとオフのデジタルな境界線」なんかありません。仕事をしているんだか、遊んでいるんだか、本人にもよくわからない。それはたぶんその生き方が「生物として理にかなっている」からです。「労働と遊戯の区別がつかない状態」がある種の理想であるならば、それをわざわざ切り分けて、「労働とは何か」などと力む必要はありません。まっとうな労働には「遊び」の部分がつねに含まれている。そういうことでいいんじゃないでしょうか。だから、まったく遊戯性のない労働をすることは(ガレー船の漕ぎ手とか、ブラック企業で月100時間残業とか)「生物として理にかなっていない」ということになります。「遊びの要素がまったく含まれなていない」仕事は「労働」ではありません。ただの苦役です。できるだけ早く逃げ出したほうがいい。                     『困難な成熟』内田樹

 愉快に仕事をしている人間とはやりがいを感じながら働いている(本人は働いているとも思っていないこともあるだろう)状態であろう。働き方改革が労働時間の短縮のみを志向した場合、それはどんどん労働者に労働への否定的な感情を生み出しかねない。愉快どころではない、真逆の圧縮された苦役を作りだそうとさえしているように見える。仕事のやりがいなんてものはどこへやらである。

 この「仕事のやりがい」という言葉はなんともキラキラした言葉である。「やりたくてこの仕事をしていんじゃない。」「仕事なんてしんどいだけだ。」という方にとってはこの「やりがい」という言葉など、忌々しささえ感じることだろう。しかし、どんな仕事も何らかの形で人とのかかわりをもっているはずである。その中で、誰かのためになったとか、誰かの助けになったとか、そういう経験があったのではないか。そういう他者への貢献を実感することは本人の幸福感に大きく作用する。「はたらく」という言葉には、そもそも「傍を楽にする」という意味が含まれているそうだ。

  本来的な「働き方改革」についての考えは、様々あるだろうが、自分の考えでは、本業率の回復・割合的増加ではないだろうかと考えている。自分が選んで始めた仕事ならば、自分はそもそも何がしたくてその仕事を選んだのか。その仕事に長く携わっているならば、その仕事を通してどんなやりがいを得られただろうか。そこでの仕事のやりがい=「他者への貢献の実感」が、多く得られる仕事ができるようにすることこそ本来的な「働き方改革」ではないだろうか。

 では、単なる労働時間の短縮としての「働き方カイカク」ではなく、本来的なやりがいを取り戻す「働き方改革」にするために、必要な要素はなんであろうか。それは、「多忙」と「多忙感」の解消という2つのアプローチで達成できのではないかと考えている。

 多忙と多忙感とは、非常に似ている言葉であるが、当然違いがある。僕はこの二つを次のように考えている。適切な労働とは、本人の能力を勘案して、仕事の基本フレーム(労働時間、労働場所、労働仲間の複合環境)に対して適切な量と質の労働内容が組み合わされた状態と言える。多忙とは、この仕事の基本フレームより多くの量と質の労働内容を当てはめようとして、その結果オーバーワークをしている状態と言える。「多忙」の解消とは、仕事の基本フレームの改善と仕事量の効率化や業務内容の精選を行い、基本フレームと労働内容とのバランスをとることである。他方、「多忙感」とは本来的な業務ではない仕事、もしくは自分がやりたいと願っている仕事とは違う仕事、またはその仕事をすることの価値を感じられない仕事を、自らの意思では無い外圧によって遂行せざるを得ない状況において感じる徒労感である。以上の事から「働き方改革」の方向性として以下のことが考えられる。働き方改革とは、多忙の解消という仕事の基本フレームと労働内容のバランスの改善により、多忙感たる本来的業務以外の仕事の削減・割合的低下を通して、仕事のやりがいである他者への貢献を実感できる仕事を割合的に増加させること(本業率を割合的に増加させること)で達成されるものであると言える。

 土曜日に倒れこんで、日曜に起き上ったと思ったら、また月曜から全力疾走。仕事に忙殺される毎日に、仕事の楽しさなんて感じられなくなってしまう。そんなことになる前に、労働時間の短縮を競うだけの「働き方カイカク」ではなく、自らの本来的なやりがいとしての本業率を高めるための働き方改革こそ目指されるようになっていってほしい。

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