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映画「まともじゃないのは君も一緒」を観た話。


「瑞野さんって、何でも器用に出来ますよねぇ~」

なんて褒められることがたまにある。

すると、

「私なんて何のとりえもない普通の人間ですよ~?」


なんて、他人に口走ったりすることがある。

謙遜の意味も込めて言っているつもりなのだが、そこで私はふと考えてしまう。自分は、自分のどういうところを「普通だ」と判断して、自分のことを普通と言っているのだろうか?

生活態度?容姿?仕事?価値観?恋愛の癖?そのどれもがいまいちピンとこず、むしろ「普通」とはちょっと乖離しているようなそんな気すらしてくる。なのに、「普通ですよ~」なんて平気で言ってしまう。

普通って、とっても使い勝手のいい逃げ言葉だ。


すこし前の話。

私は、「まともじゃないのは君も一緒」というコメディ映画に出会った。書き出して早々に過去記事にぶん投げてしまうのは忍びないが、出会うまでの話はこちらを読んでいただきたい。


で、今回はこの映画のことについてより深く語ってみようと思う。

主なストーリーに関しては上の記事から再び抜粋するが、普通を理解できないガリベン予備校教師と、普通をしったかぶりする恋愛指南役のJK予備校生が、「普通」という言葉に惑わされながら恋をしていく、平たく言えばボーイミーツガール的コメディ映画である。

コメディ映画らしく、互いのかみ合わない会話やずっこけてしまうような謎の行動などふんだんに笑える部分が散りばめられていて、頭を空っぽにしてみることが出来る。ただ、その一方で、その空っぽになった頭になだれ込んでくる疑問がある。それこそが「普通とはなんぞや?」ということだ。


例えば、恋愛における普通とはなんだろうか?

男と女が何かのきっかけで知り合い、同じ共通点をきっかけに親交を深め、やがて告白し、互いに愛を囁き、指輪を好感して契りを交わし、永遠の仲になることだろうか。いとも簡単に書いたが、この時点でもうすでにいくつかの選択肢が浮かび上がってくる。結婚することが本当に普通か?告白して恋人同士になることが普通か?愛の言葉を言うことが普通か?というかそもそも、愛は「男と女」に固定されることか?

これだけの選択肢があるのだから、「普通」というのをどんな尺度で見て、どういう判断基準で決めるべきなのか一体全体わからなくなる。

この映画でも、多聞に漏れず「普通=まとも」に見せかけた「まともじゃない」人間がいろいろと出てくる。そしてその一人ひとりが、観客である自分に問いかけてくるのである。「じゃあ、そうやって画面の向こうで笑っている君は普通なのかい?」・・・と。


でも、だからと言って俺は異端だー!!変人だー!!と叫ぶ勇気もないわけで。変人扱いされて周囲に距離を取られてしまうのも怖いし、しょうがないから普通の仮面を無理やり被っているのかなぁって思うのだ。

きっと人間は「普通」という仮面を被りながら何の変哲もない性格とか見た目にカムフラージュして、でもその仮面の下で本当はニヤって笑って楽しんでいたいんだろう。普通なふりして生きる自分と、自分にしか見えていない素顔の自分とのギャップとかスリリングを楽しんでいる。

だから、いつまで経っても週刊誌のおまんまの種であるスキャンダルは無くならないし、政治とカネの問題はいつまで経っても解決しないし、変質者も登下校中の児童にナニを見せつけるわけだ。


こちらの映画、シアター上映は終了しているが、配信サイト各社でレンタルが開始されており、DVD・Blu-rayの発売も決定している。ぜひ一度レンタルしていただきたい。私は正直、人生で観た映画ベスト5の中に入ってくるほどの名作だと思う。

もちろん、みなさんそれぞれに見方があり、意見があるとは思う。しかし、少なくとも皆さんが当たり前に持っている「普通」という物の尺度を考え直すきっかけにはなると思う。というか、ちょっと一度ぜひ考え直してみてほしい。あなたにとって、「普通」ってなんだろうか?「まとも」ってどういうことを言うのだろうか?


私も、たぶん普通じゃない。

あなたも、たぶん普通じゃない。かもね?



ああ、「普通」という言葉がゲシュタルト崩壊しそうだ。


おしまい。

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