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木漏れ日 (1)

「はあ……っついなあ」

 汗が目にしみて、思わず顔をしかめる。太平洋高気圧の目玉焼きはでっかい白身が首都圏の上に乗っていて、今日も酷暑になるらしい。立ち上がりつつある朝日が、待ち合わせ場所の路面を白く熱し始めた。持っているボストンバッグの重みで、足がアスファルトにめり込みそうだ。

「馬場さん、まだかなあ」

 今日から一週間、泊まり込みのバイトだ。最初から気乗りしなかったし、後ろ向きなのは今も変わっていない。バイトが嫌とか面倒とか以前に、僕がどうしようもなく行き詰まっているからだ。
 もともと夢と希望に満ち溢れて入った大学じゃない。専門学校に毛が生えたような無名の美大だから、僕らはアーティストの卵って言っても名ばかりだ。ほとんどの学生は卒業後フツーの会社に就職する。キャンパスライフを四年間のフリーパスと割り切っているから、みんな好きなことに熱中するんだ。その中にあって、僕と僕の描くものはどうしようもなく存在感が薄かった。絵を描くのは好きだよ。だから美大に進んだんだし。でも、創作に注ぎ込むエネルギーの絶対量が生まれつき足りないから、作品に熱がこもらない。自分でもなんか物足りないなあと思ってしまう。
 自分への物足りなさを放置したままだらだら描いてきたわけじゃない。水彩、油彩、シルクスクリーンと主戦場を変えて、現状打破のきっかけを探し続けてきた。その試行錯誤の割に、苦闘の跡がどこにも残らない。表現手段とかテクニックとか以前に、絶対熱量が足らないことを何度でも思い知らされてしまう。僕は美術にではなく、希薄な自分自身にうんざりしていたんだ。

 創作の行き詰まりが深刻だった僕の私生活は、創作物以上に味気なかった。親に無理を言って美大に行かせてもらったから、生活費や画材確保はバイト頼み。乏しいエネルギーが日常を維持することだけに削り取られていく。お気楽な大学生と言い切れる連中が心底うらやましかった。
 迷走の連続だった二年半が過ぎ、三年の後半にはもう卒業後のことがリアルに迫ってくる。卒制や就活は早めに始動するように……そういう指導教官の声が濃い輪郭を持つようになる。夏休みと言ったって、期待感なんか何もなかった。それでなくても枯れかけていた創作意欲が猛暑で蝕まれ、エアコンが効いている大学の制作室で涼むくらいしかすることがなかったんだ。
 エネルギーが出払った状態だったから、渡辺先輩の無茶振りを押し返せなかったんだろう。

◇ ◇ ◇

「シンジー、頼むよー」
「ちょ、先輩、勘弁してくださいよー」

 渡辺先輩は僕と同じ三年なんだけど、一年ダブっているから年上だ。無名美大の中ではかなり頑張っていて、学生なのにそこそこ名が売れてる。だから『先輩』付きで呼ばれることが多い。
 先輩はアクリル画を得意としていて、いくつかの画廊に少女画をコンスタントに出品している。3号くらいの飾りやすいサイズと描き込みの丁寧さ、販売価格のリーズナブルなことが相まって、画学生の習作にしてはよく売れているらしい。美術展で入選するほどの腕前はなくても、固定ファンがついて絵が売れるなら十分稼ぎになるんだなあ。先輩を見ていると、美術ってなんだろうと思わず考え込んでしまう。
 で、その先輩に最近カノジョができた。平凡そのものの僕と違って長身でハンサムだし乗りの軽い人だから、女の子には事欠かないのかと思ったんだけど。実際は逆で、アプローチした子たちからことごとく振られまくっていたそうな。

「制作にかかるとデートの時間もなくなるんだよ。しゃあないだろ」

 半ば諦め顔で筆洗をかき回す先輩は、確かにキャンバスに向かっている時だけは顔つきが変わる。独特の緊張感を漂わせ、結界を張るみたいに外部からの干渉を一切受け付けなくなるんだ。関係を深めようとする女の子たちには、オンオフの極端な変化をどうしても理解してもらえなかったらしい。先輩も、自分を切り崩してまで女の子たちに合わせるつもりはないと言い切った。そんな先輩が有頂天になっているんだから、カノジョに強い求心力があるか、もしくは先輩の創作姿勢に理解があるということなんだろう。なんてうらやましい。
 先輩の絵が評価されているということ以上に、カノジョにまで手を伸ばせる熱量があることに嫉妬してしまう。いや、それはどうでもいいんだ。問題は、先輩がカノジョとのデートを優先するために、決まっていたバイトを僕に押し付けようとしていることだ。

「映画撮影の手伝いって言っても俺らは裏方さ。美術班長の馬場さんの指示に従って、塗ったり、切ったり、貼ったり。まあ、単純作業だな。運が良ければスタッフロールに名前が出るかもしれないぜ」
「そんなの誰も見ないでしょ」
「ははは。まあな」

 はははじゃないよ、まったく。このくっそ暑いのに。カノジョと一緒の時間を確保したいからって、バイトを人に放り出すか? ものすごく不愉快だったけど、僕が自己迷宮に入り込んだままどこにも抜け出せない状態だったのは確かだ。逃げ出したくても出口が見つからない。避難路の見当すらつかない。それなら自室と制作室以外の場所にテレポートするのもありかなと、ふと思ったんだ。
 黙り込んでしまった僕に全く頓着しないで、先輩が一方的にまくし立てる。

「いいぜー! ロケ地は軽井沢だ。こんなコンクリートジャングルの鍋底じゃない。高原の涼風すずかぜさわー、の世界だ」
「じゃあ、彼女と一緒に……」
「あいつはここから動けないんだよ」
「うう」

 どんどん外堀が埋まる。夏休みは制作優先にしてバイトを入れないつもりだったけど、仕方がない。

「わかった! わかりましたよ! やりますよ」
「おお! 助かる」

 絵の具だらけの手でばんばん背中を叩かれ、それでなくともピエロの服みたいなスモックがもっとカラフルになる。

「担当の馬場さんに話を通しとくから、あとで履歴書持ってアルテアって会社に行ってくれ。手続きがいるんだ」
「うう、めんどい」
「そう言うなって。俺らとは世界が違うけど、いい経験できると思うぜ」
「先輩の実体験ですか?」
「一日分だけな」
「はあ……」

 たった一日だけ? あとを僕に丸投げ? もう文句を言う気力もなかった。

◇ ◇ ◇

 喫茶店で、馬場さんと顔合わせ兼打ち合わせをした。先輩が言ってたみたいに、馬場さんは気さくでとても感じのいい人だった。見た目は顔中ひげだらけのごつくてむっさいおっさんなんだけど、まだ三十歳。言葉遣いが丁寧だし、僕らを学生だからとバカにしない。「くん」ではなく、「さん」で呼んでくれる。

「三村さん、暑いところを済まないね。今回のロケサポは、美術班の出番は少ないと思う。のんびりやってくれればいいから」
「はい」

 僕の履歴書を受け取った馬場さんは、すぐに作業内容を説明し始めた。美術さんと言っても、時代ものやエスエフとかと違って現ドラをロケで撮るなら出番は限られてる。衣装や小物系は別班だし、ちょっとあの看板がーとかこの表示板がーとか創作要素のほとんどないやっつけ仕事が多い。だから馬場さんとバイトの二人だけなんだ。
 なるほど。先輩はクリエイティビティが全くないバイトだとわかって、さっと見切りをつけたんだろう。逆に馬場さんは先輩の感性が気に入って、強引に引きずり込もうとしたんだろな。先輩のセンスを僕に求められても困るんだけど。一週間のロケサポを避暑気分でこなす。イレギュラーなバカンスなんだと自分に言い聞かせて、開き直るしかない。開き直らないとやってられないほど、下界は猛烈に暑かったんだ。

◇ ◇ ◇

 汗をだらだら流しながら昨日までのことを思い返していたら、背後で短いクラクションの音が響いた。馬場さんが運転席からぬっと顔を出してる。

「渋滞に巻き込まれて少し遅れた。待たせてすまないね」
「いいえー」
「すぐ出る。乗って」

 助手席に乗り込んで力任せにドアを閉め、でかいバッグを後部座席にぽんと放る。機材満載のおんぼろワゴンが、重いよーとぶすぶす文句を言いながら軽井沢へ向かって走り出した。酷暑と緊張でよく眠れなかった僕は、シートベルトに拘束されるなりすぐ眠りに落ちた。


Fly by Sineself ft. Summer Haze

木漏れ日 目次

第一話

第二話

第三話

第四話

第五話

第六話

第七話

最終話


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