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木漏れ日 (6)

 木立を見上げていた沓澤さんが、さっと首をひねって僕の目を見据えた。強靭な意志が生のまま視線に乗せられている。その勢いに気押されてしまう。

「でもね、監督っていう立場は、しんどい代わりに大きな役得があるの」
「役得、ですか」
「総指揮者の監督には、得難い出会いの機会がたくさんある。今回も素晴らしい出会いに恵まれたと思う」

 そう言うなりずいずい身を乗り出してきたので、びっくりしてベンチから転げ落ちそうになった。

「次の作品は根底からコンセプトを変えたいの。どうしても三村さんに手伝ってもらいたいんだ」
「僕は映画のことなんかわかりませんけど……」
「映画を意識しなくてもいい。架空の絵コンテを描いてほしい」
「絵コンテ、ですか」

 ぴんと来なくて首を傾げたら、説明を足してくれた。

「監督が撮影シーンのディテールを描く、もしくは描かせる。それが絵コンテ。まだあやふやなイメージを固定フィックスすることで、撮影を効率よくこなすための作画ね。でも、日本の映画監督さんは絵コンテを使いたがらない。イマジネーションや閃きの幅を狭めるのが嫌ってことかな」
「監督は絵コンテ好きなんですか?」
「大嫌いよ。自分から枠をはめるなんて論外。考えたこともない。だから架空の、なの」

 破り跡のあるスケッチブックを探した沓澤さんが、島野さんを描き込んだページを開いて掲げる。

「いい絵。これを見た人は、ここに描かれている人は誰だろう、この人はこれからどう動くのかなって、思わず引き込まれるの。見ている人に続きを描かせる絵。わくわくしたわ」

 島野さんが、監督も同じ印象だったと言ったことを思い出す。予感という言葉を使ってたな。監督と俳優っていう立場の違う二人の女性が、僕の絵で思いがけずリンクしたってことか……。

「でね、次の作品では三村さんの要素を取り入れたい。て言うか、それがもともとわたしの目指していた映像表現の方向なの。あ、先にやられちゃったあって感じ。かーなり悔しい」

 ぷっとむくれた沓澤さんの顔を見て、ナマだなあと思った。サングラスとバイザーは彼女なりの化粧、いや仮面ペルソナみたいなものなのかもしれない。

「うーん、僕で本当に役に立つんですか?」
「わからない」

 沓澤さんの表情が一瞬で変わった。ほんの一欠片ひとかけらも妥協を許さない監督の顔に。

「だから、正式スタッフとしてはクレジットできない。版権とか著作権とか、そっちに絡みそうなアプローチもしてもらえない。有名人が抱えている験担ぎの占い師、みたいなイメージかな」

 なるほど……表に出られないサポーターってことか。

「でも、わたしにとっても三村さんにとっても、今までトライしたことのないアプローチになるよね。どう?」

 沼から抜け出そうとするあがきすらアートになる。沓澤さんのセリフが脳裏で鳴り響く。今まで僕は本当に沼から抜け出そうとしていただろうか。むしろ、沼と一体化することを是としていなかったか。エネルギー不足で何でも済まそうとしていなかったか。自分のエネルギーを、残り一滴になるまで絞り出そうとしていたか。
 三流私立美大と言っても、みんなには好きなこと、突っ込んでいること、夢中になっていることがあって、うまいへたとは別の次元でその熱を無駄なく使ってる。彼らの膨大な熱に煽られて、僕はものすごく焦っていたんだろう。焦ってあがくほど泥の中に沈んでいく。徒労感のせいで、あがくエネルギーをただ無為に垂れ流してしまったのかもしれない。
 今まで使い切れなかったエネルギーを推進力に変えるチャンス……か。

「ふうっ」

 返事をする前に、一つ大きく息をついた。今までの僕には絶対にできなかったこと。それに……これから挑まないとならないから。

「おもしろそうですね。でも」
「でも?」
「監督は、僕が今この時も泥沼で溺れてるってことを知ってますよね」
「……ええ」
「僕は学生です。今は夏休みですからこうやって時間が取れますけど、休みの後半から、自由に使える時間がほとんどなくなるんです。課題も公募への出品も就活もこれから本格化するので。僕は筆が遅いですし」
「うん。ごめん。そうだったね。ちょっと……舞い上がってたかも」

 しまったという表情になった沓澤さんを見て、少しだけ苦笑する。

「僕は……エネルギーの絶対量が乏しいんです。エネルギーを持て余している島野さんと正反対なんですよ。今回のバイトだってそうで、断るエネルギーがないからまんまと押し付けられちゃった。お人好しとか押しに弱いとか、よくそんな風に言われるんですけど、本当は違う。押し返すエネルギーが足りないんです」
「……」
「監督は、今回の作品でスポンサーからシナリオやアクターを押し付けられたことがものすごく嫌だった。断腸の思いで押し付けを飲んだ。そうですよね」
「ええ」
「僕はいつもそうされているんです。誰かに僕の形を勝手に決めつけられるのは死ぬほど嫌なんですけど、嫌だと押し返す気力がない。断腸の思いはいつも、なんです」
「ごめん……なさい」

 沓澤さんや島野さんは素直にすごいなと思う。成功者であることに甘えず、努力して自己表現の泥沼をざばざばかき回し続けているから。そのアグレッシブな姿勢は尊敬に値するし、僕も見習いたい。だけど……。

「僕が描いたものの中からアイデアや閃きを拾い上げてくれるのはすごく嬉しいですし、どんどん利用してほしいです。だけど、どんなに拙くても僕は表現者でありたい。顔のない駒やパーツにされるのは嫌なんです。わがまま言ってすみません」

 馬場さんに半端者が何様のつもりだと怒られそうだけど、顔なしにされることだけはどうしても受け入れられない。乏しいエネルギーをぎりぎりまで絞り出して申し出を断った。なんとか言えてよかった。沓澤さんが悲しそうな顔をしているのは、僕が提案を拒絶したからじゃないと思う。押し付けを心底嫌っていたのに僕には押し付けてしまった……自己嫌悪の棘が深々と刺さったからだろう。
 スケッチブックの束を抱え、ベンチからゆっくり立ち上がる。沓澤さんと島野さんには心からお礼を言いたい。

「僕は、自分の描いたものを誰かにすごく褒められたことがありません。インパクトの乏しい退屈な絵だと馬鹿にされたことはいっぱいありますけど」
「……」
「自分で描いた絵なのに、自分には全く見えていなかった光景。それをお二人に見せてもらえたことは、大きな、いや一生の財産です。大事にします。本当にありがとうございます。島野さんにも、そうお伝えください」
「わかった。無理を言ってごめんね」
「いいえ、誘ってくださったことは本当に嬉しいです。応えられなくてすみません」
「ううん、気にしないで。わたしのデリカシーが全然足りなかった。やっぱり……」

 やっぱり、の先は示されなかった。島野さんの「決心」と同じように、慎重に飲み込まれた。

◇ ◇ ◇

 軽井沢を離れる前夜。馬場さんが最後のスタッフ会議から戻ってくるなり僕を呼んだ。沓澤さんが平謝りしてたぞと。

「まあ、クリエイターは自己主張してなんぼだ。沓澤さんが特別わがままとか自己中というわけじゃない」
「はい。わかります」
「三村さんも同じさ。自分を折らずに断ったんだから、しっかり自己主張できてる。足りないってことはないよ」

 そう言って、僕の肩をぽんと叩いた。ああ、本当にいい人だな。島野さんの呼び出しで現場を離れる時に「やっておく」と言ったのも、決して僕を軽く見たからじゃない。どつぼって余裕がなかった僕を心配してくれたからだ。今になってやっと馬場さんのさりげない気遣いに気づくなんて、我ながら情けない。

「それと、これは島野さんから」

 メッセージカードを渡された。プライベートなメッセージなら騒動になりそうだけど、カラマツ林の絵葉書に「ありがとう」って書いてあるだけ。島野さんらしいなと思う。
 絵葉書を確かめていた僕を見て、馬場さんがふっと笑った。

「島野さんからスケッチを見せてもらったけど、島野さんの存在感を極限まで削ぎ落として表現できるってのはすごいね。無視や軽視じゃない。抽出っていうのとも違う。うまく言えないんだけど、島野さんの核心を自ずと語らせるっていうか。島野さんや沓澤さんが衝撃を受けるはずだ」
「ううー、へたくそなんですけど……」
「いや、誇っていいと思うよ。見事な表現だ」

 意識せずに描ける絵はない。沓澤さんが言った通りだとすれば、一連のスケッチは確かに僕の意識のかけらなのだろう。下手くそで、自我が薄くて、主張するエネルギーが全然足りない。そういう自己否定で引き去っていってもなお残るもの……か。
 クーラーボックスから缶ビールを引っ張り出した馬場さんが、僕に一本渡してくれる。それからおもむろにプルタブを起こした。ぷしっ。

「三村さんには世話になった。助かったよ」
「いいえー、ちっとも役に立たなくてすみません」
「そんなことはないさ。一口にバイトと言っても、いろんな人がいるからね」

 馬場さんが、やれやれという表情で一気にビールをあおった。

「三村さんは、今回のバイトを渡辺さんから押し付けられたんだろ?」
「はい。なんかカノジョができたとかで」
「カノジョ、か」
「今頃はデート三昧でしょうねえ」
「わははははっ!」

 馬場さんが全身を揺すって大笑いした。

「違うなあ。渡辺さんにできたカノジョってのは、絵のモチーフだろ」
「……。え? ええっ? えええーーーーっ?」
「スタッフ紹介の時に、居合わせた島野さんを見てどえらくショックを受けてたからな。あれから描きまくってると思うよ」

 ううう、そういうことだったのかあ。納得!


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