パラ言語

  パラ言語という言葉を目にした。「パラ語」という言葉を自分の中で作り出して、すでにこういう言葉はあるのかなと、インターネット検索をしたら出てきた。

  聞いたことのない言葉だったが、同じくヒットしたノンバーバル・コミュニケーション、非言語コミュニケーションという言葉は耳にしたことがあった。かいつまんで言えば、話し手の言語によらないところでの内容。声のトーンだったり、身ぶり手振り、表情などが負っているコミュニケーションの部分ということだと思う。

  言ってしまえば、言外の内容ということだろう。笑いながら「馬鹿だな」と言われるのと、無表情で声の調子もなく「馬鹿だな」と話されるの、部屋の蛍光灯に飛んできたカメムシを睨むような顔で「馬鹿だな」と言い捨てられるのでは、受けとる意味が違う。生身のコミュニケーションにおける、パラ言語が持つ役割は大きい。

  この言葉を検索したがために、色々なことを考えるはめになった。国や地域等、文化の違いによる、パラ言語の齟齬がもたらす受け取り手の誤解(それはときに笑いにもなるし、悲しい破局へと繋がるかもしれない)。また、日本における空気を読む的な重要性。パラ言語から多くのものを読みとる人と、そうでない人。あまりにも事細かに分かり心を痛めてしまう人と、逆にパラ言語が本当に理解できず、心に傷を負う人。Twitter、メールや手紙。短文に慣れることの怖さ。絵文字、顔文字。昔の手紙における長々しい時候の挨拶等。

  特に考えさせられたのは、「小説におけるパラ言語は?」ということだ。活字の小説の文章にパラ言語は無い、と言っていいと思う。わたしは専門家ではないので、分からないが、フォントや媒体という観点があるにせよ、言葉の定義としては、まあ無いと言えるだろう。

  そうすると、普段の現実世界でのコミュニケーションは、というより一歩進めて世界自体は 、素材から発している生の音で、小説は、まるでデジタル音源のようなものなのだろうかと考えた。というより、それに過ぎないのだろうかと。何かアナログのレコードとCDが並んでいる絵が思い浮かんだ。

  まだ考えを深めていないので、軽はずみなことを言うが、まあ小説というのはそういうものかなと思う。言語のもつ性質上、いかに巧く、素晴らしい文章であっても、それは所詮デジタルにおける解像度の違いであって、くっきり、なめらか――なモニターに映された映像なのだろう。

  その小説が、ただ現実世界を写したものであるならば。

  そこに会話文があるならば、地の文があり、創作する人はおそらく必死で、パラ言語も言葉を使って表すだろう。そして小説は、ただ目に見えて、理解できる現実を写しているのではなく、微妙な感情、事物の持つ本当の意味、世界の真実を表しているからこそ価値があるものなのではないか。

  言葉を使って言葉に出来ないことを表すのが、小説であり、創作であり、文芸なのだ――という、何だかありきたりな結論に至ってしまった。パラ言語には、引き合いに出されてしまって、ばつの悪い思いをさせたかもしれない。

  ちなみに、パラ語というのは、「その言葉の、平行世界における言葉」である。見たところ辞書にもインターネット上にも無いようなので、わたしが作った。いずれ、このことについても話したい。

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