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意識と無意識

無意識を切り離したわたしたち

わたしたちはもともと意識と無意識を持つ存在です。脳と身体、これを持つ存在です。でも、わたしたちはこの一方だけを特別なものとして崇めて、もう一方は、自分たちに都合の悪いものとして切り離しました。

私たちにとって大切なのは、意識だけであり、無意識は別にこれといって大切な部分ではないといって、わたしたちは無意識を自身から切り離してしまいました。

脳と身体も同じです。重要なのは脳だけであり、身体などたいして重要ではない、だから、身体などいらないという事になります。

そうやって意識や脳ばかりを大きくした結果、その自分を今私たちは自分で支えきれなくなっています。

でも、その自分で自分を支えきれなくなった自分を今は社会が提供する様々なサービスで私たちはその不安定な自分を支えています。

社会とは不安定な自分を補償するためにつくられたもの

社会とは、自分で自分を支えきれなくなっている自分を支える、補償するためにたくさんのサービスを生み出します。そしてそのサービスを私たちはありがたがって使っていますが、そもそもの話、人が提供するサービスとは一体何なのか?という前提に立って考えてみれば、そのサービスの根本にあるのは皆お金(資本)です。

お金を手っ取り早く稼ぐには、人を不安定にすればいいんです。不安定で自分を支えることが出来ない人間が持つその心の隙間に何らかのサービスを埋め込む。そうすれば、そのサービスは成功し、それがお金になる。

養老孟子さんの本に、脳化社会という言葉が出てきますが、こうした社会の中にあることで、私たちは知らず知らずのうちに、自分で自分を支えることが出来なくなっているという事を知っていますか?

自分で自分を支えることが出来ない。自分を支えていたはずの部分を自分で必要ないと切り捨て、自分に都合のいいものだけで自分を形成し私たちは生きている。

その自分に都合のいいものは、決して自分を支える礎のようなものにはならない。その自分に都合よくみにつけたものは、ちょっとの刺激ですぐに崩れてしまいます。

だから、いつも不安定です。人は自分で自分を支えるその基盤を失っています。だから、この自分を支える何らかの基盤を求めて生きてはいますが、その基盤とするものは、日々移り変わり、何を基盤の部分に入れたとしても、それが自分という人間の一生の基盤になる訳ではありません。

わたしたちは日々何かを追っている

私たちは、日々何かを追って生きていますが、その何かとは、自分が切り離してしまった無意識や、自分の身体といわれるものではないかと思います。

統合されていたはずの自分が二つに分離し、その分離してしまった自分はさらに細分化し、バラバラになってしまっている。私たちはそのバラバラになった自分を見て、これではまずいと、自分で自分を形成し始める。

でも、その自分で形成した自分は本当の自分からはかけ離れている。
バラバラになった自分を形成しようとする時、そこには自分の抱えているコンプレックスが大きな作用をもたらすことになる。

もし、そのコンプレックスを自身の中で解消することが出来ていなければ、いくら自分で自分を形成しようと、その自分は歪んだものとなるのは必須です。

私たちが考えるべきことは、自分が何を失ってきたのか?ということ。何を切り捨ててきたのか?ということ。

統合的な人間だった。でも、その統合的な意識、それを自分で壊してきたのは自分です。与えられたその統合的な意識、それにいちゃもんをつけて、自分で好き勝手に自分をカスタマイズしたのは自分です。

その代償は自分で受けるほかありません。

好き勝手にやって、その結果があまり思わしくないものだった。だから、その自分を受け入れることが出来ないとそう嘆く人がとても多い気がします。

でも、自分でそうなるようにしてきたその結果がそこにあるだけなので、そこで何をどういっても、その結果を変えることは出来ません。

だとしたら、これから先の自分の人生を変えることは可能です。自分で願う姿を手に入れたいと望むのであれば、そうなるように行動をするだけです。

自分の望む結果を得るためには、そうなるための情報入力が必要です。その情報入力と共に、それをどう自分で受け取り解釈するか?という力を持ち、それを望む結果に結びつけていく。これはとても大切なことです。

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