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親という安全基地

子供を観察しているととても面白い事がわかる。

子供がまず一番最初に親に対して求める事は、自分という存在を見てもらう事。毎日忙しい親に向かって、子供はこういう。

ねえ、見て!!自分がした事をとにかく見て欲しいのだ。

子供は何があっても自分を一番に見て欲しいし、親の関心を一番に引きたい。自分の親を誰にも渡したくない。

子供はすごくストレート。ねえ、見て!!私を、僕を見て!とそうせがむ。

親が何か他の事をしていようものなら、子供は、全力で親の関心を自分に向けようと色々な事を画策する。

とにかく自分を見て欲しくて見て欲しくてたまらない。そうした子供をじっと観察していると、自分の事を見てくれないと、もう自分は死んじゃうぞ!!とそう親を子供は脅しているかの様に見えてくる。

私を見て!!僕を見て!!そう言って子供は毎日必死に一体どうやったら親の関心を自分に向ける事が出来るかを考えている。

何をしたら自分の事を見てくれるのかな?何をしたら、自分だけを見てくれるかな?子供というのは意外に大人よりもたくさんの事を日々考えているのかもしれない。

何をどうしたら、その目に私を、僕のこの姿をうつしてくれるの?何をしたら、親のその目の中に自分たちは映る事ができるのか?子供は本当に一生懸命悩む。

ねえ、見て!!そう言って振りむいてみてくれれば子供はそれで安心する。これでもかって思うまでとことん子供のそのねえ見て!!に付き合っていると、そう言う子供に関心を向け続けていると、ある日突然何かに満足したのか、それとも安心したのか、あれほど言っていたねえ見て!が止まる。

いつでもこの人は自分の事を見ていてくれるという安心感が子供の心の中で定着するのだろうか。

何をしても、ねえ、見て!!と言っていた子供が突然何も言わなくなる。と次の瞬間から、今度は、ねえ、聞いて!!に変わる。

あなたの事をずっと見ていますよ。いつでも、あなたという存在に関心をもって親はあなたたちの事を見ていますよという事がその子供の心の中に定着すると、子供というのはどうやら、次のステップに進むらしい。

どうやら子供のねえ、見て!!は、自分という存在が在るという事の確認作業だったみたいなのである。

ねえ見て!と子供が言う時、いつもそれに反応し見ていてあげると子供は、ここに自分という存在が在っていいんだ!!ちゃんと自分という存在が受け入れられているんだ!という事を認識するらしいのだ。

見て!と言われたときに、親が何か別の事をしていて、その子供の発する問いかけに何も反応しなかったりすると、子供というのは、どんどんとその見て!というその言葉に怒りを込めてくる。

ねえ見て!というかわいくて優しい声が、何も反応してもらえないとなるとどんどんと怒りを増して強いものに変わっていく。

見て!!最終的にはその声が怒号に変わる。ひどい場合は、じだんだを踏んで泣き叫ぶ。ねえ見て!!

子供たちからしたら、このねえ見て問題はどうやら自らの生死にかかわる様なものであるらしい。子供のねえ見て!がこうなると、悲痛な叫びに聞こえてくる。

それでも、親が自分の事に没頭していて、子供の言う事に何の反応も示さずにいると、その子は怒りを超えて死んでしまった様な状態になる。

怒りで一気に高まったエネルギーが、一気にしぼんでエネルギーを失ってしまったようなそんな状態。目はうつろになって、その表情は子供とは思えない様なうつろな表情になる。

そうした子供の表情を見ていると、まさにその子供はその自らの親に対して、私はあなたに殺されたんだ!という様なそんな目を子供は自らの親に向ける。

私の事を見ろ!!とそう言ったのに、お前は何も私の言う事を聞かない。聞き入れない。お前はこの私を傷つけたんだ!というような目で子供は親を見つめる。その時の子供の目は、何もかもを引き裂くような恐ろしい目になる。その目は今すぐにでも、私の見て!に反応をしなかった親を殺してやろうか?というようなそんな恐ろしさを感じさせる。

そんなに恐ろしい目をして親の事を見つめているのに、当の親は、そんな恐ろしい感情を我が子が抱いているとも思わずに、その自分を見つめるそのキレッキレの怒りに満ちたその目を見て大笑いをする!!何?あの顔?怒っているの?かわいい!といって、親は子供の心の中で今まさにうごめいている邪悪で怖ろしいその感情に何も気付こうとしない。

この時、本当に子どもは自分の心の中に親を殺してやろう!というような気持ちをもっているのだろうと私はおもう。それほどに、恐ろしい目を子供はする。

ねえ見て!に成功した子供たちは、無事に、次のねえ聞いて!のステージに上がっていく。この人たちはいつでも自分たちの言う事を聞いてくれるというそうした安心感が次のステップに向かわせてくれるようだ。

しかし、このねえ見て!に失敗して、親を殺してやりたいという感情を少なからず自らの心の内に抱いた子供というのは、じゃあそのままで次のねえ聞いてステップに上がっていくか?というと、そうではないようだ。

ねえ見て!に失敗した子供は、親との間にまず信頼関係というものが結ばれていない。ねえ見て!と自分が言ったときにそれに出来る限り親が反応していれば、子供は自分という存在はちゃんと見ていてくれる人がいるという安心感を身につける事が出来る。それにここに自分という存在が在るという事を強く実感する事が出来る。これがまさに心の安全基地と言われるものなのだろう。

子供としての第一ステップに失敗してしまうと、これが面白い事に、次のねえ聞いて!ステップに子供は移行しない。そう言う子供は何も言わなくなる。

ねえ見て!といったときに自分の事を見てもらえば、子供は、自分を見てもらうという事で自分という存在が在るという事を認識できるし、そうした自分がこの世界にあるという事を肯定する事が出来る。

でも、このステップに失敗すると、子供は自分がここに存在していていいものかその確信が持てなくなると同時に、自分という存在が在るという事もはっきりと認識出来ないという状態になる。

此処に自分という存在はある。だから、その存在を外部に向けて必死にアピールし、まずは親に受け入れられる事で子供はこれが自分なのだ、これが自分で自分はこれでいいんだとそう認識することが出来る。でも、誰も自分というものに反応してくれないとなると、自分自身を一体どうやったっら在るものとして認識したらいいのかがわからなくなる。

此処に自分はある。でも、その自分に何も反応してくれない。となると、この時点で子供は、自分が1つの存在として在りながら、誰にも認識されない透明人間になった様なそんな感覚になるのではないだろうか?

自分というものがいまいちはっきりと認識する事が出来ない。わからない。誰も自分を受け入れてくれない。だから、当然のことながら、そう言った子供に自己肯定感が育つわけもない。

自分の事をこれでいいんだ!!なんて思えない。だれも自分のしたことにリアクションをくれなければ、自分というものを掴む事は難しい。これは大人である私たちも同じことだ。

相手に受け入れてもらう。自分を見てもらうという事で初めて、そこで人は自分という存在を在るものとして認識出来る。それに、親に受け入れられる事で、そこから、自分はこれでいいんだといった自己肯定感が生まれてくる。

子供というのは、生きるために、ねえ見て!とそう親にいうのだと思う。見てくれないと、自分が人間になれない。自分を見てそしてその自分を受け入れてもらって自分は本当の意味での人間になれる。

私に、僕に反応して!!自分たちのしたことにいちいち反応して!!という子供の要求には実に深い意味が隠されている様におもう。

自分が人間であると認識する為に、子供のねえ見て!はあるのだとおもう。きっと生まれてきてまだ間もない子供は、自分がもしかすると何者であるのかもわからないで、不安の渦の中をさまよっているそんな状態なのかもしれない。

自分の事がいまいちわからない。だからこそ、子供たちは何かになろうと必死にもがく。なにかになる事で、自分というものをその混沌とした不安の渦の中から救い出そうとしているのかもしれない。

子供のねえ見て!は、自分というものを混沌という不安の渦から救い出すための1つの手段なのかもしれない。

親に見つめてもらう。自分のねえ見て!に反応してもらう。そうした事で、子供は混沌の中から抜け出し、その親の反応によって自分を肯定しそしてそれにより、私というもの、つまり、自我というものを形成していくのではないだろうか?

今日はここまで。

この続き、子供のねえ聞いて!ステップ2は明日又記事にして書きたいと思います。

長い文章最後まで読んでいただきありがとうございました。




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